時を縫う英雄譚

第七話

 翌週の月曜日。

 教室は、いつも通りのざわめきに包まれていた。

 窓際の席で、透は欠伸を噛み殺す。
 黒板の前では、担任の宮沢が軽く咳払いをした。


「じゃあ紹介するぞ。
 今日から二週間、教育実習で来てもらう」


 教室の空気が、わずかに浮つく。


「橘響夜(たちばな・きょうや)です。よろしく」


 柔らかい声。
 白シャツの袖をまくり上げた手を、軽く挙げる。


「え、普通にイケメンじゃん」

「声、ずるくない?」


 笑い声。視線。
 教室は一瞬で“日常”に戻る。

 ――透だけが、引っかかった。

 橘の視線が、一度だけこちらに触れた。
 誤魔化しようなない目線。
 測るようでも、探るようでもない。


(……あからさまにこっち見んなよ!)


 理由は分からない。
 ただ、縫われた跡のない布を見た気がした。


「一ノ瀬」


 隣から、小声。


「顔、死んでるよ…」


 笑いを噛み殺した芽吹が、肘でつついてくる。


「堂々と笑えよ、惨めになるだろ」

「……じゃあ、遠慮なく」


 くすくすと笑いながら前を見る。

 黒板に書かれる白い文字。


《教育実習生・橘響夜》


 橘が振り返り、軽く笑った。
 その笑顔は、完璧すぎて――感情が抜け落ちていた。


 昼休み。
 校舎裏。
 自販機の前で、橘がコーヒーの缶を取り出す。


「よっ」


 軽い声。


「クロノス……じゃなかった。一ノ瀬くん」

「その呼び方、やめろ」

「今は“日常編”だろ?」


 プルタブの音。
 橘は一口飲んで、空を見た。


「学校ってさ、いいよな。
 失くなっても、最初からなかったことにできる」


 透は眉をひそめる。


「何の話だ」

「さあ?」


 そのとき、芽吹が裏口から現れた。


「……フォー…橘。ほんとに来たんだ」


「一ノ瀬くん聞いた?フォー橘だって、麺かよ!」

「ふざけないで」

「ありゃ、お怒りですか?ヴァイン」

「そのテンションで学校うろつかないで。目立つ」

「大丈夫。
 目立つのは、“消える直前”だけだから」


 芽吹の表情が、一瞬だけ硬くなる。


「……冗談に聞こえない」

「冗談だよ」


 橘は即座に笑った。
 切り替えが早すぎる。


「それより――」


 声が、少しだけ落ちる。


「校内の記憶、歪み始めてるね」


 透の視線が鋭くなる。


「具体的に」

「名簿と、出席ログと、写真。
 三つが噛み合ってない」

「黒縫いか?」

「可能性は高いね。
 でも――」


 橘は缶を潰し、ゴミ箱に放った。


「まだ“縫い替え途中”だ」


 芽吹が言う。


「公安に報告は?」

「まだ早いな」


 透が即答した。


「誰が消されるか、見てからだ」

「……一ノ瀬」

「俺は、俺の記憶を信じる」


 橘が、楽しそうに目を細めた。


「いいね。
 その顔。“裁く側”の目だ」


 芽吹は何も言わなかった。
 否定も、肯定も。


 翌朝。
 HRが始まっても、
 一つだけ席が空いていた。


「あれ?」


 誰かが首をかしげる。


「今日、静かじゃない?」

「もともと、こんな人数だろ?」 


 担任が名簿をめくる。


「……全員いるな」


 透は、息を止めた。

(違う)
 そこに――いたはずだ。

 昨日、窓際の後ろ。
 ノートに落書きばかりしていた男子。

 名前も、声も、はっきり覚えている。 


「なぁ、イインチョー」


 透は芽吹に小声で言う。


「昨日の……」

「なに?」

「いや……」


 芽吹は、本気で分からない顔をしていた。

 その瞬間。
 後ろのドアがゆっくりと開いた。
 橘が立っていた。
 何も言わない。

 ただ、透だけを見る。

 そして――唇が、動いた。

 ――一人目だ


 その夜。
 校舎の影。
 橘は端末を開く。


「フォールより報告。
 クロノス、未覚醒。
 ただし、欠損を認識」


 通信の向こう。 


『了解。
 回収準備を進める』


 橘は空を見上げ、笑った。 


「……やれるもんなら、やってみろよ」


 星のない夜に、
 見えない糸が、一本――ほどけた。
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