時を縫う英雄譚

第九話

 
 東の空はわずかに白み始めているのに、街全体が眠ったままのようだった。
 ビルの谷間に浮かぶ電光掲示板が、無音で文字を流している。


 ――〈記憶補正キャンペーン〉


 透は、足を止めた。


(……昨日、あったか?)


 見覚えのない言葉。
 なのに、胸がざわつく。
 周囲を見渡す。


 通勤途中の人々。

 犬を散歩させる老人。

 コンビニに入る学生。


 誰一人、その広告を見ていない。
 まるで――

 “最初からそこにある“風景”のように。

 透は視線を切り、学校へ向かった。
 
 教室に入った瞬間、違和感は確信に変わった。

 見慣れない顔が、数人。


 同じ制服。

 同じ机。

 同じ空気。


 なのに。


(……誰だっけ)


 名前が出てこない。
 そもそも「思い出そう」という感覚すら薄い。


「おはよー!」


 芽吹の声が、教室に響く。

 いつも通りの笑顔。

 いつも通りの委員長。

 だが、透は気づいてしまった。


 芽吹もまた、
 その数人を“最初からいた存在”として扱っている。


 ホームルーム。
 担任は、迷いなく出席を取る。


「……じゃあ、次…秋山洸大」

「はーい」


 名前が呼ばれる。
 見慣れない顔が、当たり前のように返事をする。

 そのやり取りを見ながら、透は拳を握りしめた。


(学校が……違う)  


 壊れているわけでもなく…
 ただ――書き換えられている。
 

 昼休み。
 廊下の窓から、街を見下ろす。
 電光掲示板が、また同じ言葉を流していた。


 〈記憶補正キャンペーン〉


 芽吹が、隣に立つ。


「……ねえ、一ノ瀬」

「なんだ」

「昨日まで、あの広告……あった?」


 透は、答えなかった。
 芽吹の声が、ほんの少しだけ震えていたからだ。

 そのとき。


「あれ、気づいちゃった?」


 軽い声。
 振り返ると、教育実習生――フォールがいた。
 ノートを片手に、いつもの調子で笑っている。


「…先生、あれ何ですか」


 芽吹が聞く。


「さぁ? 最近の広告は凝ってるからねぇ」


 そう言いながら、
 フォールの視線は、広告ではなく透を見ていた。

 何も言わない。
 だが、言わなくても分かる。

(――知ってるな)
 


 夜。
 街のネオンが、一瞬だけ乱れた。

 信号が点滅し、
 広告の文字が、ノイズを走らせる。
 透の闇糸が、勝手に反応した。


(……来る)


 空気が裂ける感覚。


『……おにいちゃん』


 声。
 確かに、聞こえた。
 透の呼吸が止まる。


「……灯!!!」


 返事はない。
 声は、もうどこにもない。
 ただ、街の色が少しだけ薄くなった。

 
 背後で、足音。


「……今の、聞こえた?」


 フォールだった。
 透は振り返らない。


「……お前、何を知ってる」


 フォールは、珍しく即答しなかった。


「この街はね」


 一拍。


「“直され始めてる”」 

「誰に」

「さぁ?」


 フォールは肩をすくめる。


「でもさ、直すって言葉は便利だよね。
 壊した事実を、隠してくれる」


 その瞬間。
 フォールの右腕に、一瞬だけ光が走った。

 見間違いかと思うほど、短い光。
 透は、見逃さなかった。


 
 翌朝。
 透は机に突っ伏していた。


「一ノ瀬ぇ、寝るなら家で寝ろってーの」


 クラスメイトになった、秋山に頭を叩かれる。


「……夜勤明け」

「バイトかよ!」


 笑い声が起きる。
 教室は、平和だった。
 だからこそ、気味が悪い。

 芽吹は、クラスの中心で笑っている。
 その笑顔の奥に、透はもう別の顔を知ってしまった。


(……裁く側の目だ)


 
 昼休み。
 フォールが教室に顔を出す。


「おーい、昼飯誰か付き合ってくれないと寂しいなぁ」


 軽口。
 笑顔。
 いつも通り。
 だが、透には分かる。

 この男は――
 この街がどう壊れているかを知っている。
 
 放課後。
 校舎の影で、フォールは空を見上げた。
 電光掲示板が、また文字を流す。


 〈記憶補正キャンペーン〉


「……眠れない街だ」


 誰に言うでもなく、フォールは呟いた。


「人が眠るたびに、
 “都合のいい現実”が縫い上がっていく」


 透は、その言葉を聞き逃さなかった。

 縫い上がっていく。
 街は、もう元には戻らない。

 ――それでも。

 透は、闇糸を握りしめた。

 救いたい声が、
 確かにこの街のどこかにあると知ってしまったから。
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