時を縫う英雄譚

地下は、音がなかった。

正確には、音が意味を持たない空間だった。
足音も、衣擦れも、すべてが吸い込まれていく。

一ノ瀬透は、白い線の引かれた床の中央に立たされていた。


拘束はない。

だが、逃げ場もない。

正面の硝子壁の向こうに、複数の人影。

しかし、顔は暗くて見えなかった。


「観測対象《クロノス》」


拡声器越しの声が響く。


「未登録縫写者。
 時間干渉の痕跡を確認。
 当該能力、暁ヶ浜における因果安定値を逸脱」


淡々と、読み上げられる。
透は黙っていた。

否定も、弁明もしない。
ここでは、言葉は発せなかった。


「さて、質問だ」


少しだけ、間があった。


「君は、自分の縫写が
 “誰の記憶を起点にしているか”を理解しているか」


透の喉が、わずかに鳴った。
理解している。
だが、言えない。
硝子の向こうで、誰かが息を吸う気配。


「……答えない、か」


その時、横から一歩、前に出る影があった。

朝倉芽吹――コードネーム《ヴァイン》。

制服ではない。
公安の深緑の外套。
肩の徽章が、冷たい光を返している。


「私が引き取ります」 


即断だった。
周囲が、ざわめく。


「監督権限は重いぞ、ヴァイン」

「承知しています」


芽吹は透を見なかった。
見ると、何かが崩れてしまいそうだからだ。


「彼の縫写は、偶発ではありません。
 継続的です。
 そして――感情起点です」


その言葉に、空気が一段、冷える。


「ほぅ、最も危険なタイプじゃな」

「えぇ」


芽吹は、はっきり肯定した。


「だからこそ、
 私が裁定を担います」


透の指先が、微かに震えた。


「……裁定?」


初めて、声を出す。
芽吹は、ようやく彼を見た。

その視線には、
昼の委員長の柔らかさはなかった。


「一ノ瀬透」


名を呼ぶ。


「あなたは今後、
 単独での縫写行使を禁じられます」


言葉が、針のように刺さる。


「違反した場合――
 私が、あなたを処分する」


一拍。


「必要とあらば、
 縫写能力の剥離処置を申請します」


透は、何も言えなかった。

それが、
守るための宣告だと分かってしまったからだ。

硝子の向こうで、承認音が鳴る。


「決定する。
 観測対象《クロノス》は
 《パターン級》ヴァインの管理下に置く」


手続きは、それで終わった。

人影が散っていく。
部屋を出る直前。

暗がりに、誰かが立っていた。


「やぁ、一ノ瀬透くん…いや、クロノスかな」


白衣でも制服でもない。
教授のような、研究者のような曖昧な立ち姿。

橘響夜――フォール。

彼は、透を見て、ほんの少しだけ笑った。


「…君、人を巻き込むの上手だね」


軽い口調。


「でもさ」


足元の床に、細い亀裂が走る。
縫い目だ。
フォールは、その上に靴底を乗せた。


「それ、ほどいたら、楽になるよ」


芽吹の視線が、鋭く走る。


「……下がってください」


フォールは肩をすくめた。


「かっかしなさんな、ただの忠告だよ」


彼は、透ではなく、芽吹を見た。


「守るって、
 全部を縫い止めることじゃない」


そう言い残し、闇に溶ける。

廊下に出た後、二人はしばらく無言だった。


「……ごめんな」


透が、先に言った。
芽吹は立ち止まらない。


「謝らなくていい」


少しだけ、声が硬い。


「私は、正しい選択をした」


それが、自分に言い聞かせる言葉だと、
透には分かった。

ふと、床に残った光の残滓が目に入る。
さっきの亀裂。
すでに塞がっている。


だが、縫い目の形が――
どこか、見覚えのある曲線だった。


胸の奥が、痛む。
理由は、分からない。

芽吹は、その縫い目を見なかった。

見てしまったら、自分が裁いたものの正体を
理解してしまう気がしたからだ。


地下の灯りが、一つ消えた。
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