丘の上の小さな 美容室
 ぽり、と頬を掻く。
 若くてエネルギッシュな女の子。
 あたしは気まずくなり視線を泳がせた。
「撫子さん、だっけ?彼女じゃなくてよかったの?」
 彼女を帰したということは、今夜の相手はあたしに決めたということか。
 美織は焦った様子で振り返り恐る恐るあたしの頬に触れてきた。
 今日はずっと慌ててるわね。
 セフレ同士が顔を合わせるとなんか気まずいわよね。初めての経験だからあたしも戸惑うわ。
「あたしでいいの?って言っても、彼女帰っちゃったけど」
「深青以外ありえません」
「あ、そう」
「深青だけですから」
「え。でも、キス」
「断ってるんですが、なかなかわかってもらえなくて。深青がいるからと言っても信じてくれなくて困ってるんです」
「そーなんだ」
 ほわん、と気持ちが和らいだ。
 あたしだけなんだ。あの子は迫ってるだけか。
 なんだ。なーんだ。
「うふふ。そう。そーなんだー」
「深青。怒ってませんか?」
「なんで?」
「その、キス、された、ので」
「いいわよそのくらい。でもあたしの前ではやめてね。あんまりいい気はしないから」
「寛大すぎて驚いてます。俺だったら許さないんですけど。深青が他の男とキスしていたら嫉妬します」
「そうなの?大丈夫よ。あたしにはあなただけだから。他に男なんていないわよ」
 嬉しくてにこにこ笑うと、美織は耳まで真っ赤にして片手で口元を隠して目線を彷徨わせた。
「口説き上手ですね」
「そう?本当のことだもの」
「はああ。振り回されてばっかりで嫌になります」
「ふふ。美織、可愛い。でもそろそろ髪、切って欲しいわ」
「……どうぞ。こちらの席です」
「はーい」
「コートとマフラー、お預かりします」
 鞄は前回同様籠の中に入れてテーブルの上に置かれた。テーブルが目に入ると嫌でもあの日のことを思い出し、胸が疼くのでぱっと目を逸らした。
 美織はあたしの様子に気づくことなく髪に触れ、鏡越しにちら、と視線を送る。
「なんで今日はタートルネックなんですか。切りづらいんですけど」
「え。あーうん。気分」
 嘘だ。通っていた家の近くの美容室で、担当してくれたお姉さんに魔性の女扱いされたのがショックでVネックを着るのは控えていた。
 美容室に行くときは首周りのすっきりした服を着ていくのが気遣いだと思っていたけれど、どうやらあたしの勘違いだったようだ。
 美織も、もしかしたらそうだったのかもしれないと思うと今日は着てこれなかった。
 Vネックのセーターを着ていたから、際どい先に悶々として、それに追い打ちをかけてあたしが誘うものだから、思わず手を出したのかも、なんて。自意識過剰かもしれないが、着ないに越したことはない。
 そうよ、今日は髪を切りに来たんだから。お誘いなんてしないのよ。
 今日は白のタートルネックにスキニージーンズという、特に色気もへったくれもない格好をしてきた。
 ふふん、と鼻を鳴らすと、美織はタートルネックを引っ張り、つい、と項を撫でた。
「ひゃあっ」
 ぞわぞわと鳥肌が立った。項を押さえ振り返ると、美織の顔が近くて驚き口を噤んだ。
「前髪も。切ってますね」
 指先でさらさらと前髪を撫でられる。
 ずいっと顔を近づけて、鼻先が触れるほど、息がかかるほどの距離で美織が睨む。
「他の美容室に行ったんですか」
「い、行ったわよ。なによ、なんか悪いの?!」
「今日予約してたのに、それより先に行ったんですね」
「だって。前髪が気になっちゃったから。前髪切るだけじゃなんか味気ないからトリートメントも、してもらったわ」
「あんまりいいトリートメントじゃないですね」
「一番安いやつ」
「深青」
「はい」
「別の美容室には行かないでください。俺以外に触らせないでほしい」
 至近距離。美織の匂いがする。あと少し動くだけでキスができる。鼓動が早まる。美織に聞こえる。こんなに高揚しているのがバレたら、恥ずかしすぎる。
「深青」
 いい声。声も、顔も、首と胸とお腹の筋肉も。優しく触れる手も、あたしのタイプどストライクだ。
 逆らえない。あたしの中の女が従えと警告してくる。
 だがしかし。
 あたしの意地がそうはさせない。
 ふいっと顔を背けてふん、と鼻を鳴らす。
「あなたは他の客も触るでしょ。撫子さんの髪に触れて、キスもした。あたしだけ触らせないなんてフェアじゃないわ」
 美織はむっと口を閉ざし沈黙した。
 ふん。どーだ。言い返せないでしょ。
 触れなければ仕事にならないものね。どーしょうもないでしょう。そもそもセフレにそこまで執着する必要なくない?恋人でもないんだから嫉妬するなんておかしいでしょ。あたしが今日予約を入れてなかったら、もしかしたら撫子さんと一夜を過ごしたかもしれないくせに。
 あたしだけとか言ってたけど、リップサービスかもしれないじゃない。……そうよリップサービスよ。今気づいたわ。そうじゃなきゃ撫子さんのキスくらい躱せるわよね。こんなガタイいいのに躱せないはずないじゃないの。
 なんだそっか。リップサービスか。
 あたしはしゅん、と肩を落とした。
 やっぱりそうよね。あたしだけで満足するような男なんていないか。
 だからいつも浮気されるのか。
 なんか切なくなってきた。
 項垂れため息を吐くと、ぐいと肩をつかまれて、長い前髪から覗く鋭い目が重なりそうなほど近くに来た。
 でも重なったのは唇だった。鼻先もちょこんと触れた。
 目を開けたままキスをして、少し離れて美織はすいませんでした、と苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「撫子さんのキスを避けられなかったのは、すいません。深青に誤解されてないか不安で深青にばかり気が行っていて、不意打ちで避けられませんでした」
「あたしのせいにするのね」
「深青のせいです。それと、他の人に触れてほしくないなら、触れません。この仕事は辞めます」
「はい?」
「深青が嫌なら辞めます」
「ちょっと、待って」
「なにか」
「なにかじゃないわよ。そこまでする必要ある?いや、ない!」
「あります。深青が嫌なことはしたくない。職は他にもあるのでさして困りません」
「いやいやいやいや」
 何を言っているんだ目の前の男は。
 一月前に初めて出会ったセフレのために職を変えるなんて正気の沙汰じゃない。そこまでしてセフレを失いたくないのだろうか。それとも、一月前のが、余程良かった、のか?
 あたしは良かった。とても。多幸に満ち足りた。願わくば定期的にあの幸せを味わいたいけど……。
「美織は、そんなにあたしがいいの?」
 あたしの言葉に美織の頬が、耳が真っ赤になり、ぎゅっと目を閉じ「深青がいい」と低い声で宣った。その声はあたしのお腹を収縮させて、鼓動を速めて呼吸を乱す。ああ、どうしよう。この男が、たまらなく……。
「あのね、美織。あたしはあなたに美容師でいてほしい。ここであなたに髪を切ってほしい。だから辞めないでね」
「でも、そうしたら深青は嫌な思いをするでしょう」
「美織が仕事以外で、あたしの前で、他の人に触れなければそれでいいわ。知らなければ嫌な思いしないでしょ」
「わかりました。じゃあ深青も、ここ以外の美容室に行かないでくださいね。俺以外に触らせないで」
「いいわ。わかった」
 あたしが頷くと、美織は破顔した。
 その表情は一気にあたしの心を引き寄せ、恋の矢があるとしたら真ん中をすとんっと打ち抜いた。
 ああ。ちくしょう。
 好きになってしまった。
 悔しくて眉根を寄せ奥歯をぎりぎり噛み締める。
 美織が首を傾げてその様子を見つめる。
「どうかしましたか」
 どうかした。
 セフレに恋をした。不毛な恋だ。失恋確定だ。
 虚ろな目で美織を見つめると、何を思ったのか「ああ」と頷きカットクロスを広げた。
「伸びた分だけ切る感じで大丈夫ですか?」
 どうやら早く切れ、と催促されたと思ったらしい。あたしはカットクロスに袖を通して頷いた。
 美織はタートルネックを丁寧に折りたたみ、あたしは切りやすいように下を向く。
「次は首周りがすっきりした服を着てもらうと助かります」
「そうよね」
「前回の服は良かったです」
「わかってる」
「……なんで今日はタートルネックなんですか?」
「際どい線が見えるからよ」
「…………」
「…………」
「…………なるほど」
「やっぱり際どかった?ごめんなさい。見苦しいものを見せて」
「見苦しくはありませんけど。それにカットクロスで覆うのでそんなに気になりませんよ」
「そうなんだ……この間行った美容室で、ちょっと一悶着あって、際どいなら着ないほうがいいかと、思いまして」
「誘ってるとか誤解されました?深青の気遣いを蔑ろにしたわけですね」
「それは、別に。ただ、あなたも、その、誘われてると思ったかなーと思って」
「誘いましたよね」
「さっ、そった、かもだけど。今日は誘わないような格好をしてきました」
「なぜ?」
「え。いや、今日は純粋に髪だけ切りに来たから」
「そうですか」
「そうよ」
 鏡越しに目が合った。
 左右の長さを確認し、カットクロスをさっと取り払う。
「こちらへどうぞ」
 シャンプー台に移動して、椅子に座るとゆっくりと倒れていく。ガーゼをかける素振りを見せたので目を閉じると、ガーゼの感触ではなく唇に、柔らかな熱いものが重なりびくりと肩を揺らした。目を開けると美織の目が熱を持っていてあたしを見ていた。両手で顔を包まれて、何度もキスを繰り返す。
 なんなの。なにするのよ。
 トリートメントしてほしいのに。
 体感五分。やっと唇を離して、美織はぺろりと自分の唇を舐めて口の端を上げた。
 あたしは息を乱して涙目で美織を睨んでやる。
「こんな顔して誘うつもりないとか、説得力ないですよ」
「ど、ど、どんな顔よ」
「鏡見ます?」
「見ないわよっ」
「ははっ」
 破顔する美織にぎゅっと心臓を掴まれる。
 この男の笑った顔があたしの弱点だ。
 美織は楽しそうに口の端を上げたまま、今度こそガーゼを顔にかけてぬるま湯で髪を濡らし始めた。
 あたしはふん、と鼻を鳴らす。
「トリートメントが終わったら、また珈琲とクッキーを用意しますよ。ただ、その前にまた深青に触れたい」
「もう触れてるでしょ」
「意地悪ですね。髪以外にも触れたい」
 あたしは沈黙した。
 美織の指が、頭皮を撫でる。それだけで、あたしはもう根負けしている。
「あたしでいいなら、美織にあげるわ」
「深青がいい。ずっと深青ひとすじですよ」
 リップサービスだとしても、あたしは美織の言葉と優しく触れる手に癒される。
 いつまで続くかわからないこの関係に、あたしはただ酔いしれる。 
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