丘の上の小さな 美容室
浮気とピアス
「予約は二週間後でいいですね。また他の美容室に行かれると嫌なので」
「あ、はい」
キッチンで、あたしは美織の淹れてくれた珈琲を飲みながらクッキーをぱくりと頬張る。
もそもそと、珈琲を飲んで流し込む。
美織はスマホで予約を入れると、残り少ない珈琲をぐいと飲み干し、あたしの後ろに回り込んで後ろから抱きしめた。
美織の大きな手が、あたしのお腹に回り込む。
美織の匂いと体温を直に感じて、疼くお腹をどうにかしたくてきゅっと、目を閉じた。
美織はすんすんと髪に鼻を埋めて匂いを嗅ぐ。
「深青の匂い、好きです」
「ここのトリートメントの匂いでしょ」
「いえ。深青の匂いです」
「あっ、そう」
照れくさくて素っ気ない返事になってしまったが、美織は気にしていないようだ。
ちら、と時計を見る。
今日は早番なので、九時にはここを出ないといけない。真っ直ぐ店へと向かう。
あたしは美織の手をやんわり握って離させると、珈琲を飲み干しシンクに置いた。
「そろそろ行かないと。早番なの」
「そうですか。わかりました」
美織はぐいとあたしの腰を引き寄せキスをする。
たった今わかりましたって言ったくせに、キスがしつこい。角度を変えて何度もしてくる。そのうちあたしは熱を持って、抵抗できなくて美織の首に腕を回して与えてくれる快感に身を任せた。
「っ、ほんとに、もうだめ。帰る」
美織の胸を叩き、首を振ってキスから逃れると、名残惜しそうに顔を歪めてぎゅうっと抱きしめられる。
「帰したくありません」
「う、ん。でも行かなきゃ」
「二週間なんて、待てません」
「一月待ったじゃない」
「気が狂いそうでした」
「そんな、大袈裟な」
「一月、深青を思わなかった日はありません」
「あたしも美織を思わなかった日はないわ。気がついたらあなたのことずっと考えて……ごめん、忘れて」
セフレにしては重い言葉を吐くところだった。
あたしと美織は、恋人ではないのだから。
「もう、行かないと。二週間後のこの時間、楽しみにしているわ」
「はい。俺も」
頬にキスをされ、あたしははにかみ美容室をあとにした。
店に着くと鍵を開け、仕事着に着替えて店を開ける。
十一時、予約のお客様がお見えになり、寝台に案内して軽くカウンセリングをして施術に入る。常連さんだといつものように、と要望されることが多いのでカルテを見直すことは忘れない。
最後にハーブティーをお出しして、会計を終えてお見送り。
入れ替わりで、千紗が出勤してきた。
千紗はまじまじとあたしを見つめ、くん、と鼻をひくつかせた。そしてにやりと笑い「昨夜はお楽しみで」とからかってきた。
「っ、いや、そんなつもりはなかったんだけど」
「美容室帰りの匂いと男の匂いがするなあ」
「はっ、嘘でしょ。鼻良すぎでしょ」
「普段の深青の匂いじゃないもんなー。今日も居酒屋、行く?」
千紗の誘いは断れない。
あたしはこくん、と頷いた。
ビールを頼み乾杯し、たこわさと枝豆、焼き鳥を注文すると、千紗はそれで?と話を催促する。
「なんかあったんでしょ。さあ、どーぞ」
「なんかあったというか……あたし、美織に落ちてしまった」
「うん?」
「恋をしてしまったわ。セフレに」
「わお」
ビールを飲みながら、千紗は同情の目を向けてきた。
「セフレって割り切ってれば、楽だったのにね」
「ほんと、そう。でも無理だった。美織ってばあたしのタイプど真ん中なんだもん。特に、筋肉が」
「ふっ。筋肉ね。それだけ?」
「あと、声も」
「それだけ?」
「あたしを、ちゃんと見てくれる。仕事よりもあたしの気持ちを汲んでくれた。あたしが悲しまないように考えてくれた。大事にされてるって実感させられる。彼氏よりもセフレが大事にしてくれるっておかしな話よ。でもそう感じたの。それはきっと美織だから。そこに愛はないけど、でも……美織の優しさに、絆されてしまったわ」
千紗はビールを一気に飲み干しおかわりくださーい、と店員にグラスを差し出した。喜んでー!と若い男の子が千紗の手からグラスを受け取り厨房に消えた。
千紗はフライドポテトを摘み、ビールを持ってきた男の子にお礼を言うと、あたしを見て微笑んだ。
「今までさ、深青は自分から好きになったことなかったじゃん。告白されて付き合って、だからかな。彼氏に対しては常に冷静だった。でもさ、その美容師にはぞっこんだよね。感情の起伏が激しい。喜んだり落ち込んだり、深青が人間らしくていいと思う。今の深青、すごく魅力的だよ」
「今まで人間じゃなかったみたい」
「仕事人間だった。でも今は、恋に溺れてる。いーじゃん。気持ちが溢れたら、それ、伝えてみたら」
あたしはぐっとビールグラスを包み込む。
「告白はしない。美織とは、まだ一緒にいたいしあたしの好意は望んでないだろうから。今の関係のまま、今はいたい」
「ふーん。そっか。深青がいいなら、いいんじゃない?」
あたしはテーブルに突っ伏した。
「ああっ爛れた恋路にハマってしまったー」
「恋とは苦しいものだ。存分に楽しめ」
「他人事だと思って」
「他人事だもーん」
楽しそうにたこわさとビールを口に運ぶ千紗を恨めしく睨む。
親友といえど所詮他人事。その通りだ。この気持ちはあたしにしかわからない。でも、あたしの変化に気づいてこうして居酒屋に誘い話を聞いてくれるのは、千紗しかいない。
「千紗、感謝してる」
「どうしたいきなり。私は深青を酒の肴にしているだけよ」
「それでもいいわ。ありがとう」
「はいはい。照れる」
「んふふ」
それから他愛ない話をして、居酒屋の前で別れた。
夜の十一時。人はまばらになり、帰宅する人、二次会三次会に行く人、朝までコースの恋人たちや行きずりの恋。その人たちをかいくぐり、あたしは家路についた。つこうと、したが。