丘の上の小さな 美容室
 喫茶店に入ると、カウンターの向こうのマスターがいらっしゃい、と微笑む。
 奥には他にお客さんがいたので、手前の四人がけのテーブル席に向かい合って座ると、マスターがお水をことりと丁寧に置いてくれた。
「美織は、甘いのは好き?」
「はい、好きです」
「そうよね。手作りクッキー作るくらいだものね。ここのオムライスとかパスタは絶品なんだけど、ケーキも美味しいわ。あたし、モンブランと珈琲にする」
「じゃあ、俺も」
「好きなの頼みなさいよ」
「深青は食べたいの、ありますか?」
「んー、かぼちゃのチーズケーキ」
「じゃあそれにします。一口あげますよ」
 美織はマスターを呼んで注文を終えると、水を一気に飲み干した。 
「喉、渇いてたの?」
「緊張して」
「なにに?」
「……かぼちゃのチーズケーキ、食べますよね」
「くれるなら貰うけど」
「そうですよね」
「?顔が赤いわ。どうしたの」
 マスターが珈琲とケーキを静かに置き、伝票を裏返して行ってしまうと、あたしは早速モンブランにフォークを通す。
「深青」
「ん、なに」
「どうぞ」
「え」
 口元に、フォークで区切った一口サイズのかぼちゃのチーズケーキを差し出され、ぽかんと口を開けた。その口に、むぐりとケーキをねじ込まれたので、はっとしてフォークの上に乗ったケーキを唇と舌で舐め取った。
 口からフォークが引き抜かれると、口の中がかぼちゃの風味でいっぱいになる。
 秋味。美味しい。緩む頬に手を当てもぐもぐと咀嚼する様子を観察していた美織が、ふっと息を吐いて笑った。
「もう一口?」
「うん、食べたい」
 口を開けると迷いなくケーキが飛び込んできて、もごもごと幸せを噛み締める。
 はっと我に返って辺りを見回す。
 マスターと、奥の席のお客さん以外は誰もいなくて、見られてないようだったのでほっとした。
 そして美織に向き直り、こほんと咳払いをした。
「こんなとこで、あーん、なんてしないでよ。恥ずかしいじゃない」
「食べたじゃないですか」
「くれるっていうから」
「あーんなんてしたことないから緊張しました」
「……あ、それで顔が赤かったのね。やる気満々だったわけだ」
「食べるっていうから」
「ふふ。おかしい。可愛い、美織」
 赤面する美織を見ながら、モンブランをフォークで掬い、お返しとばかりに美織の口元に持っていくと、案外躊躇わずぱくりと食べた。
 
 奥の席の二人が会計を終えてドアを開けると、土砂降りの雨の音が店内まで響いて目を向けた。
 若い二人の男女は、顔を見合わせどうしようかと悩んでいる。すると黒髪の青年が近くにあるコンビニを見つけ、隣の女性に話す。
「傘、コンビニで買ってくるからちょっと待っててね」
「だめ。あたしが行くわ。蒼はここで待っててね」
「やだ。じゃあ一緒に走ってこ。奥さんだけ濡らす旦那さんがどこにいるっての。行こ、紅」
 黒髪の青年が、女性の手を取って走り出す。
 ドアが閉まり、チリンとドアベルが鳴りふたりは雨の中へ消えていった。
 
 あたしは美織を振り返る。
「どうしようか。まだ四時だし、夕飯には早いし、雨も降っていることだし今日は解散しましょうか」
「……嫌です」
「嫌です?」
「ここからなら、美容室の方が近いです。残念ですが寿司は諦めてデリバリーでピザでも取りましょう」
「コンビニで、傘買う?」
「買ってきます」
「一緒に行くわ」
「濡らすわけにはいきません」
「さっきの御夫婦の真似?」
「違います。常識です」
「美容室まで走ってきましょ」
「……深青がいいなら」
「決まりね」
 ケーキも珈琲も残っていない食器をそのままに、あたしと美織は席を立った。
 会計で、美織が全部払おうとしていていたのであたしは慌てて美織を押しのけようとしたが、美織はびくともせずさっさと会計を済ませてしまった。
 むっとして出した財布を握りしめていると、マスターが穏やかに笑って「男に花を持たすのも、いい女のできる技ですよ」と諭されて渋々財布を鞄に戻した。
 ドアを開けると、土砂降りの雨は変わらず、空はご機嫌斜めのままだった。
 美織はあたしの手を引いて走り出す。
 雨は冷たく激しく、あっと言う間にずぶ濡れになり、体温を奪う。
 水溜りに何度も足を取られそうになり、その度に美織が手を引いてバランスを取ってくれた。
 ばしゃばしゃとまるで水の上を走っているかのような感覚に陥りながら、小丘を登ってやっと美容室に着いた。美織が鍵を開け、中に入ると濡れた髪に指を絡めながら引き寄せられ、キスをする。
 冷たい唇。頭皮から感じる美織の冷えた指先。
 一枚ずつ濡れた服を剥ぎ取られ、唇と大きな手で愛撫される。
「……っ、ねえ、デリバリー、は?」
「ん、あとで」
「ベッドが、いいんだけど」
「止められません」
「ほんと、わがまま」

 冷えた体が美織の熱で温められる。
 
 お風呂に入りたいな、と美織の腕の中でぼうっと考えていると、心を読んだかのように浴室に連れられて、シャワーを浴びながらまた美織の熱に浮かされた。
 
 予約だけの特別な行為はいつしか連絡を取り合い日常へと変化しつつある。
 美織はあたしを簡単に溺れさせ、深海へと導いていく。そこでは息もできない、むせ返るほどの甘い誘惑と快感があたしを襲い、浮かび上がることを忘れさせてしまう。もっと、と強請れば際限なく与えてくれる熱を、あたしはもう手放せそうにない。

 こんなに、愛しているのに。
 あなたは愛していないのね。

 虚しい。悲しい。寂しい。
 いつかは別の誰かを選ぶのかしら。
 あたしを飽きたと捨てて、その手を離して別の誰かに触れるのかしら。
 想像したら、涙が出た。
 美織がぎょっとして動きを止める。「痛かったですか?止めますね」と官能的な動きを止めて終わりにしようとするものだから、あたしは美織にしがみついて頭を振った。
「いいの。止めないで。痛くないから。そうじゃないのよ」
 体は全く痛くない。美織に痛くされたことなんてない。それよりも、心がぱりんと割れそうで、そのヒビから何かが溢れ出してしまいそうでとても怖い。
「お願い、続けて」
 あたしの震えた声に美織は動揺していたが、あたしが頑なに続きを求めたから、仕方なしにキスをした。あたしは快楽の波へとその身を任す。
 これから先、こんな想いを抱きながら身体を重ねていくのかと思うと辛くて目の前が暗くなった。
 泣き止まないあたしを慈しむように優しく抱いて、美織はあたしの中に入り込んだまま快楽から呻き、その美織の表情を最後にあたしは意識を手放した。 
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