丘の上の小さな 美容室
躊躇いがちに、美織の足音が遠のいていく。
あたしはほっとして電気をつけて部屋を振り返る。
玄関に積み上げられた段ボール。いつかの出し忘れたゴミ袋。リビングはその日脱いだ服がソファに重ねられていて、ローテーブルの上にはエステ関係の本が散乱している。珈琲を飲んだコップもそのままだ。こんな部屋、美織に見られたらと思うと気が気じゃない。
やっぱり、バレる前に、片付けないと。
玄関で靴を脱ぎ、片付けのことを考えていたら玄関の段差に足を引っ掛けてしまい盛大に転んだ。
あっ、と思った時にはもう遅かった。
びだーんっと、床に全身で倒れた。その衝撃で玄関先に積み上げていた宅配便の段ボールが雪崩のように崩れ落ちた。
そのため、結構な音がした。部屋が揺れた気がした。全身打撲したかもしれない。
「いった……」
なんとか起き上がり玄関に座ると同時にドアをがんがん叩かれて飛び上がる。
「深青?!大丈夫ですか。倒れてないですかっ?!」
大声で部屋の前で叫ぶ美織に、あたしは全身の痛さも忘れて慌ててドアを開けた。
美織はドアを掴み、あたしの顔を覗き込む。
美織の大声に何事かと、隣の部屋の住人がドアの隙間からこちらを見ていて頬が引きつる。
あたしは隣の住人に軽く会釈して美織を引っ張り部屋に入れた。
「痴話喧嘩かよ……」
舌打ちが聞こえドアの閉まる音を確認し、あたしはほっと胸を撫で下ろした。
美織はあたしの肩を両手で掴み「怪我してないですか?」と聞いてきた。
はっとして美織の目を両手で隠す。思わず部屋に招き入れてしまったが、この惨状を見せるわけにはいかない。ただでさえ汚部屋なのに、今の衝撃で倒れた宅配便の荷物が玄関に散乱していて目も当てられない。
「大丈夫だから。このまま、目を瞑ってお帰りいただけるかしら」
「なぜですか。俺に見られたくないことでもあるんですか?……誰か、いるとか」
「なによそれ。どーゆー意味?」
「部屋に行きたいって言ったら濁したじゃないですか」
「だからそれ、どーゆー意味」
その時、かたん、と音がして、宅配便の段ボールの中にあったものがバランスを崩し床に落ちた。
美織は「やっぱり誰かいますよね」と、あたしの手を振り払い、目を開け部屋の惨状を目の当たりにして口をポカンと開けた。
あたしは苦虫を噛みつぶしたような顔をして、ばんっと美織の背中を叩いた。
「見られたくなかったんだけど」
「……すいません」
「いいわよ。もう」
「片付けは苦手ですか」
「大の苦手よ」
「ふっ」
「何がおかしいのよ」
「几帳面なのかと思っていましたが、そうでもなかったですね」
「几帳面ならあなたとこんな関係になってないわよ」
「どんな関係ですか?」
美織はあたしを壁に追いやりこつんとおでこをくっつけた。熱い息がかかり、あと一センチ近づけばキスができる距離。
「さあ。どんな関係かしら」
唇に、柔らかな感触が当てられ目を閉じる。美織があたしの腰に腕を回して抱き寄せたその瞬間、美織の足が積み上げられていた段ボールに当たり、それは派手な音を立てて無残にも床に全部倒れた。
「……片付けましょうか?」
「結構よ。もう帰りなさいよ」
「こんな部屋にひとりで残して帰れません」
「こんな部屋とは何よ」
「すいません」
「……引っ越してから、忙しくて荷物もそのままで、必要なものだけ取り出しながら生活してたらこんなになっちゃったのよ」
美織を押しやり、それよりも、と睨み上げた。
「他に男がいるとでも思ったのかしら?」
ぎくりとし、ゆっくり視線を外して後ろ頭を掻く美織に、あたしは盛大にため息を吐いた。
「あなた以外の面倒なんて見れないわよ」
玄関に上がり、宅配便を片付ける。
段ボールの中身は美容品だったり、エステの教本だったり、重いものばかりで片付ける気がなくなるようなものばかり。引っ越すときに捨ててもいいものもあったが、分けるのが億劫で引っ越し先で捨てればいいやと適当にしていた。
美織も失礼します、と上がってきて、とりあえず段ボールから飛び出した美容器具を段ボールに戻す。
お互い黙々と作業して、段ボールを元に戻すと、あたしは美容関連の本を手に取りぱらぱらと捲った。
「あたしが好きになった人は、皆浮気するわ。あたしより若くて可愛い子のところにいくのよね。深青は仕事のほうが大事でしょって必ず言われる。……ここに引っ越したのも、同棲していた彼氏が部屋に女の子連れ込んでたから、だから引っ越したのよ。あいつら蹴り飛ばして追い出しても良かったんだけど、さすがに浮気現場の部屋に住み続けようとは思えなかったわ」
初めての彼氏とは三ヶ月で別れた。
彼は最初から浮気性だった。
二番目にできた彼氏とは、気が合いすぐに同棲した。と言っても、彼氏の方があたしの部屋に押しかけた、と言う方が正しい。彼は家事が得意で、仕事はあたしのほうが忙しくて、だからほとんど彼に甘えていた。彼がときどき寂しそうにしているのにも気づかずに、同棲している安心感からか、すっかり信頼してしまっていた。
まさか女の子を連れ込んでいるとは思わず、事の最中にタイミング悪く帰宅してしまったあたしは不運だ。
しばらく千紗のところで世話になり、この部屋に引っ越してきたはいいが何も手がつけられず、傷心していた時に三人目の彼氏と出会った。けれど彼も、知らない間に浮気していた。でも彼には、感謝している。彼がいなければ、美織には出会えなかった。
美織はあたしの手から本をすっと引き抜き段ボールの上に置く。
「俺は、深青以外いませんよ。深青ひとすじです」
「そう」
「信じてませんね」
「三回だめだったからね」
「三回……」
「そう。三回」
「俺では、その三回を上書きできませんか」
「どうかしら。怖いかな」
美織の指が耳に触れ、横髪を耳に掛ける。
ピアスに触れ、親指で唇を押された。
戸惑う美織の目に、あたしはどきりとする。
どうして、そんな目で見るの。
「あの。今、こんなこと聞くのは野暮なのですが」
「うん?なに?」
「俺が、初めての男、ですよね」
「え?」
「撫子さんが言っていたでしょう」
そういえば、言っていた。
初めてのセフレだって美織に豪語していた。
「そ、そうだけど」
「失礼ですが、三人とも清いお付き合いだったのですか。同棲まで、していて」
「……そんなわけ、ないじゃない」
「……」
「……え?なに」
「どうして、嘘を付くんですか。俺は嬉しかったですよ。深青の初めての男なんだって浮かれてました」
「初めてよ。初めての、せ、せふれ、よ」
「せふれ」
「でしょ?」
美織は片手で口元を隠す。眉根を寄せ、考え込んで、唸り、そして肩を落とした。
「俺は、深青とは付き合ってると思っていました。深青は違ったんですか?」
あたしの口が、ぽかんと開いた。
頭の中が真っ白になる。
付き合っている。付き合っている?
嬉しい。嬉しいのに、混乱し、戸惑い、額に手を当て俯いた。
「付き合って、ないわよね。だって。そんなこと、言ったっけ。あたしたち、ただ、予約の日に会って、その、えっちして、朝に珈琲飲んでお別れして……これって、付き合ってるって言うの?」
「デートもしたでしょう。水族館。それに俺は深青の家にも行きたいって言いました」
「でも、一回しかないじゃない」
「それは、深青は仕事を大事にしていたから……デートも、重くならないようにしたかったんです」
「重くならないようにって、美織は、だって」
「重かったですよね。嫉妬して、独占したくて、執着して。あなたを愛しているからですよ。あなたを恋人として愛しているから。でも、深青は俺をセフレにしか思ってなかったんですよね。ピアスもネックレスもただの貢ぎ物だと?」
「そんなことない。嬉しかったわ」
「おかしいって思わなかったんですか?」
「セフレなんて初めてだから、わからなかったのよ。あたし、あなたには他にもセフレがいるのかと思っていたわ。撫子さんも、そうなのかと……」
美織が息を呑む。
あ、間違えた。
はっとして顔を上げると、鋭い目があたしを射抜き、のどの奥がつっかえる。一気に口の中が渇き、美織の淹れた珈琲が恋しくなった。
「じゃあ、考えてください。俺のこと真剣に。セフレなんてふざけた関係じゃなくて、真面目に考えてください」
好きなのよ。愛しているのに。
でも言葉は胸の中から出てこなかった。
美織の怒りと、寂しさの溢れる表情を目の当たりにし、あたしはただそこに立ち尽くすしかなかった。
あたしはほっとして電気をつけて部屋を振り返る。
玄関に積み上げられた段ボール。いつかの出し忘れたゴミ袋。リビングはその日脱いだ服がソファに重ねられていて、ローテーブルの上にはエステ関係の本が散乱している。珈琲を飲んだコップもそのままだ。こんな部屋、美織に見られたらと思うと気が気じゃない。
やっぱり、バレる前に、片付けないと。
玄関で靴を脱ぎ、片付けのことを考えていたら玄関の段差に足を引っ掛けてしまい盛大に転んだ。
あっ、と思った時にはもう遅かった。
びだーんっと、床に全身で倒れた。その衝撃で玄関先に積み上げていた宅配便の段ボールが雪崩のように崩れ落ちた。
そのため、結構な音がした。部屋が揺れた気がした。全身打撲したかもしれない。
「いった……」
なんとか起き上がり玄関に座ると同時にドアをがんがん叩かれて飛び上がる。
「深青?!大丈夫ですか。倒れてないですかっ?!」
大声で部屋の前で叫ぶ美織に、あたしは全身の痛さも忘れて慌ててドアを開けた。
美織はドアを掴み、あたしの顔を覗き込む。
美織の大声に何事かと、隣の部屋の住人がドアの隙間からこちらを見ていて頬が引きつる。
あたしは隣の住人に軽く会釈して美織を引っ張り部屋に入れた。
「痴話喧嘩かよ……」
舌打ちが聞こえドアの閉まる音を確認し、あたしはほっと胸を撫で下ろした。
美織はあたしの肩を両手で掴み「怪我してないですか?」と聞いてきた。
はっとして美織の目を両手で隠す。思わず部屋に招き入れてしまったが、この惨状を見せるわけにはいかない。ただでさえ汚部屋なのに、今の衝撃で倒れた宅配便の荷物が玄関に散乱していて目も当てられない。
「大丈夫だから。このまま、目を瞑ってお帰りいただけるかしら」
「なぜですか。俺に見られたくないことでもあるんですか?……誰か、いるとか」
「なによそれ。どーゆー意味?」
「部屋に行きたいって言ったら濁したじゃないですか」
「だからそれ、どーゆー意味」
その時、かたん、と音がして、宅配便の段ボールの中にあったものがバランスを崩し床に落ちた。
美織は「やっぱり誰かいますよね」と、あたしの手を振り払い、目を開け部屋の惨状を目の当たりにして口をポカンと開けた。
あたしは苦虫を噛みつぶしたような顔をして、ばんっと美織の背中を叩いた。
「見られたくなかったんだけど」
「……すいません」
「いいわよ。もう」
「片付けは苦手ですか」
「大の苦手よ」
「ふっ」
「何がおかしいのよ」
「几帳面なのかと思っていましたが、そうでもなかったですね」
「几帳面ならあなたとこんな関係になってないわよ」
「どんな関係ですか?」
美織はあたしを壁に追いやりこつんとおでこをくっつけた。熱い息がかかり、あと一センチ近づけばキスができる距離。
「さあ。どんな関係かしら」
唇に、柔らかな感触が当てられ目を閉じる。美織があたしの腰に腕を回して抱き寄せたその瞬間、美織の足が積み上げられていた段ボールに当たり、それは派手な音を立てて無残にも床に全部倒れた。
「……片付けましょうか?」
「結構よ。もう帰りなさいよ」
「こんな部屋にひとりで残して帰れません」
「こんな部屋とは何よ」
「すいません」
「……引っ越してから、忙しくて荷物もそのままで、必要なものだけ取り出しながら生活してたらこんなになっちゃったのよ」
美織を押しやり、それよりも、と睨み上げた。
「他に男がいるとでも思ったのかしら?」
ぎくりとし、ゆっくり視線を外して後ろ頭を掻く美織に、あたしは盛大にため息を吐いた。
「あなた以外の面倒なんて見れないわよ」
玄関に上がり、宅配便を片付ける。
段ボールの中身は美容品だったり、エステの教本だったり、重いものばかりで片付ける気がなくなるようなものばかり。引っ越すときに捨ててもいいものもあったが、分けるのが億劫で引っ越し先で捨てればいいやと適当にしていた。
美織も失礼します、と上がってきて、とりあえず段ボールから飛び出した美容器具を段ボールに戻す。
お互い黙々と作業して、段ボールを元に戻すと、あたしは美容関連の本を手に取りぱらぱらと捲った。
「あたしが好きになった人は、皆浮気するわ。あたしより若くて可愛い子のところにいくのよね。深青は仕事のほうが大事でしょって必ず言われる。……ここに引っ越したのも、同棲していた彼氏が部屋に女の子連れ込んでたから、だから引っ越したのよ。あいつら蹴り飛ばして追い出しても良かったんだけど、さすがに浮気現場の部屋に住み続けようとは思えなかったわ」
初めての彼氏とは三ヶ月で別れた。
彼は最初から浮気性だった。
二番目にできた彼氏とは、気が合いすぐに同棲した。と言っても、彼氏の方があたしの部屋に押しかけた、と言う方が正しい。彼は家事が得意で、仕事はあたしのほうが忙しくて、だからほとんど彼に甘えていた。彼がときどき寂しそうにしているのにも気づかずに、同棲している安心感からか、すっかり信頼してしまっていた。
まさか女の子を連れ込んでいるとは思わず、事の最中にタイミング悪く帰宅してしまったあたしは不運だ。
しばらく千紗のところで世話になり、この部屋に引っ越してきたはいいが何も手がつけられず、傷心していた時に三人目の彼氏と出会った。けれど彼も、知らない間に浮気していた。でも彼には、感謝している。彼がいなければ、美織には出会えなかった。
美織はあたしの手から本をすっと引き抜き段ボールの上に置く。
「俺は、深青以外いませんよ。深青ひとすじです」
「そう」
「信じてませんね」
「三回だめだったからね」
「三回……」
「そう。三回」
「俺では、その三回を上書きできませんか」
「どうかしら。怖いかな」
美織の指が耳に触れ、横髪を耳に掛ける。
ピアスに触れ、親指で唇を押された。
戸惑う美織の目に、あたしはどきりとする。
どうして、そんな目で見るの。
「あの。今、こんなこと聞くのは野暮なのですが」
「うん?なに?」
「俺が、初めての男、ですよね」
「え?」
「撫子さんが言っていたでしょう」
そういえば、言っていた。
初めてのセフレだって美織に豪語していた。
「そ、そうだけど」
「失礼ですが、三人とも清いお付き合いだったのですか。同棲まで、していて」
「……そんなわけ、ないじゃない」
「……」
「……え?なに」
「どうして、嘘を付くんですか。俺は嬉しかったですよ。深青の初めての男なんだって浮かれてました」
「初めてよ。初めての、せ、せふれ、よ」
「せふれ」
「でしょ?」
美織は片手で口元を隠す。眉根を寄せ、考え込んで、唸り、そして肩を落とした。
「俺は、深青とは付き合ってると思っていました。深青は違ったんですか?」
あたしの口が、ぽかんと開いた。
頭の中が真っ白になる。
付き合っている。付き合っている?
嬉しい。嬉しいのに、混乱し、戸惑い、額に手を当て俯いた。
「付き合って、ないわよね。だって。そんなこと、言ったっけ。あたしたち、ただ、予約の日に会って、その、えっちして、朝に珈琲飲んでお別れして……これって、付き合ってるって言うの?」
「デートもしたでしょう。水族館。それに俺は深青の家にも行きたいって言いました」
「でも、一回しかないじゃない」
「それは、深青は仕事を大事にしていたから……デートも、重くならないようにしたかったんです」
「重くならないようにって、美織は、だって」
「重かったですよね。嫉妬して、独占したくて、執着して。あなたを愛しているからですよ。あなたを恋人として愛しているから。でも、深青は俺をセフレにしか思ってなかったんですよね。ピアスもネックレスもただの貢ぎ物だと?」
「そんなことない。嬉しかったわ」
「おかしいって思わなかったんですか?」
「セフレなんて初めてだから、わからなかったのよ。あたし、あなたには他にもセフレがいるのかと思っていたわ。撫子さんも、そうなのかと……」
美織が息を呑む。
あ、間違えた。
はっとして顔を上げると、鋭い目があたしを射抜き、のどの奥がつっかえる。一気に口の中が渇き、美織の淹れた珈琲が恋しくなった。
「じゃあ、考えてください。俺のこと真剣に。セフレなんてふざけた関係じゃなくて、真面目に考えてください」
好きなのよ。愛しているのに。
でも言葉は胸の中から出てこなかった。
美織の怒りと、寂しさの溢れる表情を目の当たりにし、あたしはただそこに立ち尽くすしかなかった。