丘の上の小さな 美容室
「急ぎすぎたかしら。やっぱりセフレからいきなり結婚しましょう、はびっくりするわよね。あたしの指輪の渡し方も雑だったし……あ、もしかして家庭的じゃないところが引っ掛かってるのかしら」
 いつもの居酒屋。目の前にはビールを喉に流し込みたこわさを味わう千紗。
 あたしは頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
 プロポーズをしようと意気込み美容室に行ったはいいが、美織のつれない態度に逆ギレして指輪の入った紙袋を押しつけた。
 そして逃げるように丘を駆け降りたあたしを引き止めたのは、他の誰でもない美織だが。
 お互い謝り誤解も解けて、夜通し愛し合って、その翌朝、指輪を嵌めた。
「そう言えば、プロポーズしてないわ」
 はっとした。
 指輪は、渡した。美織は自ら嵌めて、あたしの指にも嵌めてくれた。プロポーズの言葉がなかったのが不服だったのかもしれない。
「でも、指輪、してくれてるし……これ、もしかしてただのペアリングだと思ってるのかしら」
「深青じゃないんだからただのペアリングとは思わないんじゃない?」
「そうよね。あたしだったらただのペアリングだと思っていたかも」
「左手薬指にしてるしね」
「そうね。左手薬指だったわ」
「さすが重い男だ。疑わずして左手薬指」
「そう。さすがよね。だとしたら一体何が……」
 あたしは悩む。
 そしてはっとした。
「エンゲージリングあげてないっ」
「考え方が男なんだよね……」
「それともプロポーズの仕方が雑だったからやり直してほしいとか?」
「立場が逆なんだよね……」
「もうわからないわ」
「私はわかった気がする。ほら、水でも飲んで落ち着いて」
「ここは居酒屋よ。なんで水なの。お兄さん、日本酒おかわりくださーい」
 通りかかった店員のお兄さんに手を上げた。
 千紗が苦笑してあたしの後ろで両手を上げて大きくバツを作ったので、お兄さんは笑顔で喜んでー!とジョッキに水を持ってきた。
「どうして、居酒屋なのにお酒が出てこないの」
「ほら、アイス食べたらもう帰ろう。明日は午後から仕事だよ」
「そうね。そろそろ、帰りましょうか」
 夜の十一時。明日の早番は凛だから、あたしは朝は少しだけゆっくりできる。お兄さんが持ってきてくれた水を飲み、お開きにしようとしたその時。
「あっれー!深青ちゃんと千紗ちゃんじゃない?」
 声を掛けてきたその人は、金髪に紫のカラコンに片耳だけで三つピアスの開いているサロンのお客様、恵だった。
「恵じゃない。あれ、予約してたっけ」
「深青。ここは居酒屋だ。サロンじゃない。そしてもう帰るよ」
 千紗は恵を無視してあたしの腕を取って立ち上がらせる。恵はやあやあ、と近づいてきてあたしの様子を見て瞠目する。
「酔ってるね。やけ酒?嫌な客にでも当たったの?」
「あなたほど嫌な客もいませんけどね」
「千紗ちゃん冷たいね。でもちょうど良かった。今さあ」
 恵が何か話しているが、頭がぼうっとして働かない。
 立っているのが辛くて座ろうとしたとき、恵の後ろに見知った愛しい顔が見えて背伸びをした。
 結婚を少し考えたいと言われてから、なんとなくこっちから連絡できずにいたので、顔を見るのは久しぶりだ。相変わらず、イケメン。筋肉。カッコいい。
 しかしそのすぐ隣にこれまた見知った黒髪ロングヘアの若い美人の女の子がいて眉を吊り上げた。
 まだごちゃごちゃ話している恵を押しのけて、ブーツの踵をカツカツ鳴らしながら美織に近づき胸ぐらを掴んで思い切りその頬を引っ叩いた。
 店の中に、ぱあんっと小気味よい音が響いて、居酒屋特有のがやがやとした騒音がぴたっと止まった。
 店内のお客さん、店員の目があたしたちに集中する。
「み、お」
 叩かれた美織は、目を見開いて呆然とあたしを見ている。撫子さんが、あんぐり口を開けて、あたしを見ている。
「やっぱり、若い女がいいんでしょ。撫子さんのがいいんでしょ!」
 わあっと叫ぶと同時にぱたぱたと大粒の涙が零れ落ち、美織が慌ててあたしの顔を両手で包みこんで親指で涙を拭う。けれどあとからあとから溢れ出る涙は美織の手から溢れて居酒屋の床を濡らしていく。
「深青、落ち着いて。撫子さんと何かあるわけないじゃないですか。俺が愛しているのは深青だけですよ」
「だって、隣、歩いてた」
「相談してたんです。やましいことはありません。でも深青が嫌ならもう撫子さんとは会いませんし相談もしません」
「相談?何の相談?あたしに話せないの?でも撫子さんには話せるの?あたしと結婚できないのはあたしには相談できないことがあるからなの?結婚が嫌なら指輪なんて捨てればよかったのよ。なによ、こんなのもういらないわ」 
 あたしは指輪を外そうと試みたが、美織ががっちりあたしの手を握って外させてくれなかった。
 あたしはわあっとまた泣いた。
「美織が、指輪を取らせてくれない」
「取らせませんよ。結婚が嫌なんて誰が言いましたか。深青からプロポーズされたとき、どんなに嬉しかったか深青にはわからないでしょう?」
「わかるわ。だってあの夜いつもよりずーっと情熱的だったもの。最後は美織の好きにさせたけど、本当はもうやめてほしかったのよ。気持ちよすぎて気が狂いそうだったわ。それなのに結婚は待ってほしいなんてどうして言うの?撫子さんにそれを相談しているの?撫子さんと結婚したいの?」
「深青、どうしたんです。ずいぶん感情的……もしかして、酔ってます?」
 くんくん、とあたしの唇に鼻を寄せ、日本酒の匂いに眉根を寄せた美織を見て、あたしはぎりぎりと歯ぎしりをした。
「酔ってない」
「いや、酔ってる。深青は酔いは顔に出ないタイプなんだ。日本酒一升、一人で空けた」
 千紗があたしの後ろからそんなことを言ったので、振り返って唇を尖らせた。
「一升じゃないわ。一升半よ」
「でも大丈夫。深青はどんなに酔っていても二日酔いにはならない。記憶は飛ぶけど」
「記憶、飛ぶんですか」
「飛ぶね。でも、誠実に答えたほうがいいよ。今の深青は感情的だから」
 千紗は椅子に座り、続きをどうぞ、と手で促した。
 隣で恵がけらけら笑っている。美織、叩かれてやんの、と指をさしている。
 美織はあたしの腰に左腕を回して体を密着させると、右手で顎を持ち上げ上向かせた。
 周りから口笛と、野次が飛ぶ。
 美織の鋭い目が、優しく三日月を描く。
「俺が結婚したいのは深青だけですよ。撫子さんに相談したのは、エンゲージリングです。ちゃんとしたかったんです。プロポーズ」
「やっぱりエンゲージリングが欲しかったのね。プロポーズも、ちゃんとしてなかったものね」
「いや、俺じゃなくて。深青に、あげるものです。プロポーズは深青がしてくれたから、順番は逆になってしまいましたが、俺が深青に渡したかったんです」
「あたしに、くれるの?」
「もちろんです。受けとってくれますか?」
「うん、ほしい。美織からのプレゼントだもの」
「良かった。受注品なので少し時間がかかりますが」
「またお高いもの選んだの?高いのは気が引けるって言ったじゃない」
「給料三ヶ月分ですから。そこは受け取ってください」
「いつも可愛くないこと言ってごめんね」
「深青の気遣いができるところは可愛いです」
「撫子さんみたいに感情豊かで素直に喜べる女のほうが可愛いでしょう」
「俺が惚れてるのは深青だけですよ」
 美織はあたしの左手を取り、薬指にキスをする。
「結婚してください。深青だけです。俺を虜にするのも振り回すのも、幸せにするのも、深青にしかできない。俺の隣で、我儘を言って、嫉妬して、笑って、泣いて、珈琲を飲んでクッキーを食べてほしい」
「勿論よ。美織のお手製のクッキーと珈琲を朝食べるのはあたしだけよ。あたしに触れるのも、あなただけの特権よ」
「約束ですよ」
「約束よ」
 美織が腰を引き寄せ、頬に手を当てる。あたしが美織の首に腕を絡めて目を閉じると、美織は躊躇いなくキスをした。
 わあっと周りから拍手と口笛とおめでとうー!と祝福の言葉が投げかけられる中、あたしは美織に抱きついたまますっかり安心してすぴすぴと寝息を立ててしまった。
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