丘の上の小さな 美容室

泥酔と記憶喪失


 見慣れた天井。愛しい匂い。温かな布団。
 あたしはむくりと起き上がり、隣に眠る恋人を見下ろし頭を抱えた。
 まずい。なんにも覚えてない。
 昨日は千紗と居酒屋に行って美織が結婚に乗り気じゃないことへの愚痴と不満を流暢に語り、日本酒とたこわさをたらふく胃に収めていたことは、覚えている。
 確か日本酒は一升空けた。バニラアイスを頼んだことも覚えている。そのあたりから、記憶がない。
 酔うと記憶が飛びいつの間にか寝落ちしていることが多く、その度に千紗にはお世話になっている。不思議と二日酔いもないので翌朝はけろっと起きて千紗に謝りネットでお高い酒を購入しプレゼントするのが一連の流れだった。
 今まで泥酔して、千紗以外にお世話になったことはない。
 だから今、なぜ美織のベッドで朝を迎え隣に美織が眠っているのか皆目見当がつかない。
 一体いつ、美織が登場したのかしら。
 そして千紗はどこに行ったの。

 とりあえず、なにか飲みたくてそっとベッドから降りようとしたら、ぐいと腰に腕が巻きついてきて背中に美織の体温が感じられた。耳元に熱い呼吸がかかり、一気に頬が熱くなる。腰に巻きついた手に手を重ね、あたしは逃れようと身を捩るがびくともしない。
 いつも思う。馬鹿力め。
「深青。おはよう。愛してます」
「おっ、はよう。朝から情熱的な挨拶をありがとう?!お願い、ちょ、離して」
 美織の温かさが、胸をくすぐりお腹の奥がきゅんとする。まずい。このままだと、美織が欲しくなってしまう。それをわかっているのかいないのか、美織は足を絡めて逃げられないように固定し項を分厚い舌でべろりと舐める。
「ひゃうっ。待って、午後から仕事だから無理。というかなんであたし、ここにいるの。……ちょっと、本当に、だめだからっ」
 人の話を聞かずに美織の手が服の中に忍び込んでくる。あらぬところを愛撫されて、理性が飛びそうになりながらもあたしは泣きたくなりながら必死に抵抗した。
「美織のえっち、いい加減にしてっ」
 ぱあんっと小気味よい音が、寝室に響く。
 一瞬の隙をついてあたしはベッドから逃げるように転がり落ちた。どすん、と音がして、美織が慌てて起き上がり落っこちたあたしの傍に下りて抱き起こす。
「大丈夫ですか?ケガは」
「いった……平気。それより、ごめんなさい。その、叩いてしまって」
 美織の左頬には見事な手形がついていた。美織は苦笑し、あたしの頬に、ぽろりと溢れた涙を親指で拭う。
「いいえ。大丈夫です。昨日から泣かせてばかりですね。平手打ちも二回目なので気にしないでください。深青になら、何回叩かれても気になりません」
「待って。昨日?何があったの。あたし美織を殴ったの?全然覚えてないわ。教えて」
「とても、可愛かったです」
「そんなこと聞いてないわ。具体的に、説明して」
 美織の胸ぐらを掴み迫ると、美織は鋭い目を和らげあたしを横抱きにして膝の上に乗せた。
「俺が結婚を待ってほしいなんて言ったから、こんなことになってしまってすいませんでした」
「こんなことって、何があったの。お願い、ちゃんと話して」
「俺が愛しているのは深青だけですよ。撫子さんとはもう会わないので安心してくださいね」
「撫子さん?なんで撫子さん?」 
「深青。愛してます。俺と結婚し」
「ちょっと待って」
 美織の口を両手で塞ぎ、プロポーズの言葉を遮る。
 美織は眉根を寄せ眼光鋭くあたしを睨む。
「どうして止めたんですか」
「あたし、ちゃんとあなたにプロポーズしてなかったわ。だから言わせて」
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