隣にいる理由〜選ばれるはずのなかった私が、あなたの妻になるまで〜
 何と声を掛けていいかわからず、私は名前を呼ぶ。
 私の声に、私が帰ってきたことにようやく気付いたようで顔を上げたけれど、その表情は今まで見たことがないくらい憔悴していた。

「今、会社がどういう状況か聞かせてくれますか……?」

 私は荷物を床に置くと、遼さんの座るソファーの隣に腰を下ろした。
 顔を見て話をするには、きっと彼の方が耐えられない。
 隣に座って、彼の手の上にそっと私の手を重ねた。

 遼さんの手は、驚くほどひんやりとしている。
 私の熱が、じんわりとその表面を伝い、彼に熱を与えていく。

 遼さんはしばらく沈黙していたけれど、ようやくその重い口を開いた。

 機能性スイーツ事業が、失敗の危機に直面していること。
 そのことで保守派は一斉に彼を攻撃し、神宮寺さんの実家の神宮寺百貨店も、静かに圧力を強めていること。

 このままでは高級菓子の販路も絶たれる危機に瀕している。

 神田食品は、先代の社長がネット事業に参入しないと公言していた手前、未だ店頭販売に頼っているのだ。

 このままだと遼さんは、八方塞がりで焦りからまた無理をするのではないかと危惧せざるを得ない状態だ。

「遼さん、ずっと黙っていましたけど、私は人の匂いに敏感なんです」

 私の唐突なカミングアウトに、意図がわからずきょとんとしている。
 
「意味わかんないですよね。人の匂いっていうか、体温や生活、疲労が混じった『その人自身の匂い』がわかるんです。だから、感情の変化を言葉より先に察してしまう。人の顔色を窺うって言えばわかりやすいかな。それが得意なんです」

 私の言葉に、遼さんははっとした。
 その表情を確認して、私は言葉を続ける。
 
「はっきりと言いますね。――遼さん、このままだとあなたは本当にダメになってしまう。あなたの命より大切な仕事なんて、どこにもないんですよ」

 現代社会において、過労死は問題視されている。
 従業員の働き方改革を推進していても、経営者がこれでは説得力がない。
 自分の身体を大事にしてほしい、その一心で私は彼に訴えた。
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