隣にいる理由〜選ばれるはずのなかった私が、あなたの妻になるまで〜
 私は彼の首元のネクタイを緩め、一番上のボタンを外し、呼吸を確認しながら、そっと声をかけた。

「聞こえますか……?」

 返事はない。
 それでも、その場を離れる気にはなれなかった。

 彼が倒れていたそばには、書類が散乱している。
 企業の機密事項などが書かれているものだとしたら、私はそれを見ないほうがいいと思う。
 けれど、このままだと数分後には、ここに救急隊員が駆け込んでくる。それまでに、書類をどうにかしておいた方がいいだろう。
 
 そう思って、床に散乱した書類を一枚ずつ拾い上げる。
 書類の並びの順番はバラバラになってしまっていた。けれど私は書類の中身を見ないよう、裏返しの状態でそれをひとまとめにしてクリップで留める。

 まとめた書類をどうしようと思っていたら、近くにこれが入っていたと思われる封筒も一緒に落ちていたので、それに入れた。
 同じくベッドの傍らに、この人のものだと思われるビジネスバッグも置かれている。
 他人の荷物を勝手に触ることに抵抗はあったけれど、今は非常事態だ。
 後から紛失したなどというトラブルを発生させないためにも、私は封筒一式を彼のビジネスバッグの外ポケットに差し込んだ。
 
 救急隊員の到着まで、私は床に倒れた彼のそばについていることにした。

 ——どうして、この人はこんなになるまで一人でいろいろ抱え込むんだろう。
 誰だって無理をすれば、最終的にこうなるのはわかっていることなのに……

 目の前に倒れる彼を責めるつもりはないけれど、胸の奥が、ひどく痛む。

 目の前に横たわる彼は、ただ、いつもの朝の公園ですれ違っていただけの人。
 私は彼の名前も、立場も、何も知らない。

 この人は、無理をする前に近くで誰かが止めなければ、こんなふうに壊れてしまう。
 その無茶な行動を、そばで制する人がいてくれたら、こんなことにならずに済むのに……

 大井さんが部屋に備え付けてある電話で、フロントに救急車を呼ぶよう連絡を入れている間、私はポケットの中からハンカチを取り出し、彼の額の汗を拭った。

 その時だった。
 それまで呼びかけに反応がなかった彼の瞼がピクピクッと動いた。そして眉間にしわが寄ったと思うと、ゆっくり瞼を開いた。

「大丈夫ですか? ご気分はいかがですか? どこか痛いところはないですか?」

 彼の顔を覗き込みながらそっと声を掛けると、状況が把握できない彼は驚いた表情を見せる。
 自室で仕事をしていたはずが、突然目を開けたら見ず知らずの女が目の前にいるのだから、この反応は当然のことだ。

「私は、こちらのホテルと提携しているフィットネス施設のコンシェルジュをしている楠野と申します。ホテルスタッフから、私どもの事務所に、お客様と朝から連絡が取れないと連絡がありまして。お客様が施設をご利用でないことをお伝えした上で、こちらへ一緒に様子を見に来たんです。マスターキーでお部屋に入らせていただきましたら、お客様がこちらで倒れていらっしゃったので、今救急車の手配などでホテルスタッフは下がっております……」
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