恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
「向坂さん、悪いけどこれ、また田城課長に渡しておいてもらえる?」
「これ、向坂さんにお願いしてもいいかな?」

 最初は偶然だと思おうとしていた。

 たまたま目についただけ、近くにいただけ――そう自分に言い聞かせていた。

 けれど、同じ空間に他の社員がいるにもかかわらず、呼ばれるのはいつも自分だけだった。

 その状況が続くにつれ、周囲の空気が微妙に変わっていくのを来海ははっきりと感じ取っていた。

「どうしていつも向坂さんなの?」
「二人って、何かあるの?」
「地味なのに、どこがいいんだろ」

 ひそひそと交わされる声が背中に突き刺さる。

 それは来海が最も恐れていた事態だった。

(誰でも良かったんじゃないの? 断らなさそうに見えただけ?)

 そう考えるたび、胸の奥がざわつく。

 そんな戸惑いを抱えたまま迎えた残業後、来海が自販機で飲み物を選んでいると、隣の機械が先に音を立てた。

 振り向く前に来海に差し出されたのはミルク入りのコーヒー缶。

 差し出したのは充輝だった。

「これ、良かったら」

 どうして、こんなことをするのか。

 厚意を無下にするのは心苦しいと思いつつも来海は反射的に首を横に振った。

「お気遣いなく」

 距離を取るつもりで丁寧に断ったはずだったのだけれど充輝は気にした様子もなく、当然のように隣に腰を下ろす。

「これから帰るなら、食事でも行かない?」

 あまりに自然な誘いに来海は言葉を失った。

(やっぱり、誰にでもこうなの?)

「すみません。今日は疲れているので」

 仕事を理由にした無難な断りをすれば、それで終わると思っていた。

「それなら、日を改めて誘えばいい?」

 それでも引き下がらない充輝の態度に困惑と苛立ち、不安が一気に込み上げた来海は思わず本音に近い言葉を口にしてしまう。

「……そういうの、困ります」

 それは、はっきりとした拒絶の言葉だった。
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