恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
 ある日の退勤間際、来海が資料室を出た瞬間、向かいのエレベーター前に充輝の姿があった。

 あの日以来、初めて二人きりになる。

「お疲れさま」

 穏やかな声と柔らかな笑みに来海もわずかに微笑み返した。

「……お疲れ様です」

 今しかない――そう悟った充輝は、短い沈黙ののち言葉を選んで切り出す。

「よかったら、少しだけ話せないかな」

 けれど来海は小さく首を振った。

「……すみません。そういうのは無理です」
「どうして?」

 思わず理由を問う充輝に来海は一瞬視線を落とすと、迷いを振り切るようにはっきり告げた。

 充輝が女性に分け隔てなく優しいこと、以前からそうした噂があったこと。

 そして――誰にでも向けられる好意の延長のような関係を自分は受け入れられないこと。

「――だから、何度誘われても気持ちは変わりません、ごめんなさい」

 その言葉に充輝の表情が僅かに強張った。

 誤解だと伝えようとした瞬間、無情にもエレベーターの扉が開き、来海は軽く会釈をすると何も言わずに中へ乗り込み、呆然と立ち尽くす充輝を残して扉を閉めた。

 その場に一人残された充輝は、すぐには動けなかった。

“軽い”と評されたことよりも、自分のこれまでの振る舞いが信頼されていなかった事実が深く胸を突き刺していた。

 波風を立てまいと誰にでも向けていた優しさは、軽薄さとして映っていたのだとようやく理解する。

 それでも、来海への想いだけは消えなかった。

 だからこそ充輝は自分を変えることを選んだのだ。

 それ以降充輝は誰にでも向けていた曖昧な優しさをやめ、仕事は仕事として淡々とこなして休憩や退勤後の誘いも全て断った。

 急激な変化に周囲の女性社員たちは戸惑い、やがてその理由を勝手に結びつけ始める。

――原因は総務課の向坂 来海(地味なあの女)

 根拠のない噂は尾ひれをつけて確実に広がっていき、その歪んだ視線と囁きは来海を追い詰めていくことになるのだった。
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