恋に臆病な私と恋を知らなかった御曹司の距離が、ゼロになるまで
 午後の始業開始から暫くして――

「向坂さん、ちょっといいかしら」

 ふいにかけられた声に来海がキーボードから手を離して顔を上げると、視線の先には穏やかな表情を浮かべる先輩の姿。

 彼女は来海が新人の頃に教育係だった矢嶋(やじま) 絢香(あやか)

 優しく面倒見の良い姉御肌タイプの女性で上司や後輩からも信頼されている女性だ。

「あ、はい」
「先日向坂さんに頼んだ書類なんだけど、確認したら一部足りない物があるのよ。早急に提出してもらえるかしら?」
「はい、分かりました」

 そう答えながらも来海の胸に小さな違和感が生まれていた。

 指摘された書類は提出前にきちんと見直して揃えたはずだったからだ。

 絢香が立ち去るとすぐにフォルダを開いて確認するも、そこにあるはずのデータは見当たらなかった。

 恐らく、提出が完了したこともあって不要になったデータとして削除してしまったのかもしれない。

(……作り直すしかないか)

 ため息を飲み込んで気持ちを切り替えた来海は、探し回るより一から作り直したほうが早いと判断して資料作成に取りかかろうとした、まさにその時――

「あの、向坂 来海さん、いますか?」

 総務課の入り口から、自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

「えっと……向坂は私ですけど……」

 少し戸惑いながら振り返った来海の視線の先に立っていたのは――システム課のエースであり社内でも一際目立つ存在で女性社員たちの間で話題に事欠かない男、羽柴 充輝だった。

 名指しされた瞬間、来海は思わず目を見開く。

(……え? なんで私?)

 業務上、システム課に属する充輝と関わる機会などほとんどないに等しいのに突然名指しされたことへの驚きと同時に、周囲から突き刺さるような視線を一斉に浴びて胸の奥がざわついた。
< 5 / 50 >

この作品をシェア

pagetop