光暈時雨〜彼の旋律に、恋が降る〜

第9話 踏み出す、ということ

月嶺寮の階段を上がる足取りは、
不思議なくらい軽かった。

昨日までのあたしなら、きっと、ここに来る前に立ち止まっていた。

――会えなかったらどうしよう。
――気まずかったらどうしよう。
――また、何も言われなかったら。

考えて、怖くなって、
一歩、引いていた。

でも、今日は違う。

(……大丈夫)

何が大丈夫なのか、
自分でもはっきりとはわからない。

ただ、逃げないって決めた。
それだけ。

通い慣れた廊下。
色んな音を横目に、奥へ進む。

一際、耳が恋する音が、近づいてくる。
名取さんの音だ。

――わかる。

他の音とは、やっぱり違う。

ドアの前で、一度、深呼吸。

ノックをする前に、
自分に問いかける。

(……言うの?)

答えは、すぐに出た。

――言わない。

でも、隠さない。
それが今のあたしに出来る精一杯。

「……失礼します」

ドアを開けると、
名取さんが鍵盤から顔を上げた。

視線が、合う。
逸らさない。

名取さんが、
一瞬だけ驚いた顔をしたのが、わかった。

「……来たな」

「はい」

それだけのやり取りなのに、
胸が、静かに熱くなる。

名取さんは何も言わずに、
椅子をずらした。

あたしは鍵盤の前に座る。

昨日までと、
何も変わらないはずの場所。

でも――
あたしの中は、違う。

深く、深く、息を吐く。

――あの癖。

音を出す前に、
一度だけ、名取さんを見る。

ちゃんと、目が合う。

うん、逃げない。
それだけで、もう、前とは違う。

指を下ろす。

音が、部屋に広がる。

震えない。迷わない。

上手くもないし、
完璧でもない。

それでも、
今のあたしだけにしか出せない音。

弾き終わって、
静けさが戻る。

名取さんは、何も言わない。

でも、もう、怖くなかった。

「……どうでしたか」

自分から聞く。

名取さんが、
少しだけ息を吐いた。

「……ちゃんと、前向いて弾いてた」

それだけ。

でも、それで十分だった。

「……ありがとうございます」

そう言って立ち上がり、
鞄を引き寄せる。

帰る準備。

でも、今日は――

「……名取さん」

声が、思ったよりはっきり出た。

名取さんが、振り返る。

「……前に、言われたこと」

あの言葉。

――惚れるなよ。

喉が、きゅっと鳴る。
でも、目は逸らさない。

「……あれ、わかってます」

名取さんの表情が、
少しだけ固くなる。

「だから、何も、求めません」

嘘じゃない。
今は、本当に。

「でも」

一拍、置く。

心臓の音が、
やけにうるさい。

「……ここに来るのは、やめません」

名取さんの瞳が、揺れる。

「音も、この場所も、好きだから」

――そして。
肝心要は言わない。

言葉にしない。
でも、ちゃんと、伝える。

「……それだけ、です」

何も言わない名取さん。
でも、真っ直ぐに見つめる。

それで、わかった。

(……届いた)

返事は、ない。
でも、あたしは、もう大丈夫だった。

「失礼します」

ドアを開けて、廊下に出る。

足取りは、確かだった。

告白はしていない。
でも、踏み出した。

あたしなりの、一歩。

それだけで、
心が、少し、軽い。

――あとは

"あの人"が、どうするかだ。

「……名取さん」

声にならなかった想いだけが、
胸に残った。
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