光暈時雨〜彼の旋律に、恋が降る〜

第10話 言葉にする理由(浩輔してん)

今日は時雨れている。
どこか煮え切らない俺と同じで、少し苛立つ空。

ピアノ練習室のドアを開ける音が、やけに重たく感じる。

(……逃げ道、ねぇな)

自分で張った線だ。
自分で引いた言葉だ。

あれは忠告でも、
優しさでもない。
臆病なブレーキだった。

(そんなことを今更自覚してなんになる?)

鍵盤の前に座り、息を吐く。
――ピアノを弾く前のいつもの癖。

でも今日は、音を出せずにいる。

来るかもしれない。
来ないかもしれない。
それでも、来る前提で待っている。

廊下の足音。
聞き慣れすぎた音。

「……失礼します」

結だ。

顔を上げる。
目が合う。

――逸らせない。

それだけで、もう、誤魔化せなかった。

「……よぅ」

「はい」

短いやり取り。
でも、漂う空気が違う。

なぜか結はピアノの前に来ない。
鞄を持ったまま、立っている。

昨日の言葉が、頭をよぎる。

『ここに来るのは、やめません』

言わなかったけど、わかる。
結は、もう待ってない。

俺がどうするかを、静かに見ている。

「……弾かねーの?」

結は、首を振った。

「今日は……いいです」

それは、拒否じゃない。
委ね、だ。

――今は、“音”じゃない。
わかってる。

俺は立ち上がり、鍵盤から離れる。
距離を取る癖を、今日はやめる。

「……前にさ」

結の瞳が、緊張の色で揺れる。

「惚れるなって、言っただろ」

結は、何も言わない。
逃げない。試さない。
ただ、静かにそこにいる。

「……あれな」

言葉が、世界が、重い。
今まで音に逃げてきた重さだ。

「結を守るためじゃなかった」

言葉が絡まって、うまく声にならない。
ひと息吐いて、呼吸を整える。

「俺が、壊れないためだった」

「近づいたら、たぶん、止まれなくなるって、わかってた」

だから線を引いた。
だから言葉で縛った。

最低だ。

「……でも」

息を吸う。
今度は、逃げない。

「結は逃げなかった」

昨日の音。
今日の目。
覚悟の気配。

「……それ見て、
まだ止まろうとしてんの、
俺だけだって気づいた」

結は沈黙を貫いたまま、まだ何も言わない。
でも、一言一句、聞き漏らすまいとしてるのがわかる。

「惚れるな、なんて言葉」

自分で笑いそうになる。

「一番、守れてなかったのは俺だ」

一歩、近づく。
触れない。

でも、もう距離は言い訳にならない。

「……好きだ」

音じゃない。
比喩もない。

逃げ場のない言葉。

「結が、好きだ」

結の息が、瞳が、小さく揺れた。

「今さら、格好いい言い方もできねぇし」

気恥ずかしくて、少しだけ視線を逸らす。

「それでも、
言わないほうが
もっと卑怯だと思った」

結が、ゆっくりと息を吐く。

そして――
初めて、少しだけ、笑った。

泣きそうで、
でも、嬉しいのを我慢してる顔。

「……ずるいです」

「知ってる」

「惚れるなって、言ったくせに」

「……あぁ」

それでも、俺は結を。
結は俺を。

諦めなかった。

「……でも」

「……ありがとうございます」

涙に濡れたか細い声。
それだけで、愛おしさにふるえる。

触れない。
抱きしめない。

今日は、それでいい。

雨は、降らない。
でも、確かに――恋が、降りた。

音じゃなく、言葉で。

――完――
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