境界線の独白
断章:氷点下のデリバリー
関東には珍しい大雪が、街を白く沈黙させていた日だった。
テレビのニュースキャスターが「不要不急の外出は控えてください」と繰り返す声を、僕は他人事のように聞いていた。けれど、彼女からのLINE一通で、その「不要不急」は僕にとっての「至上命令」へと変わる。
「亀有に行きたい。彼氏のところ」
時刻はとうに日付を越えようとしていた。
「雪だから無理だ」と言えば済む話だ。彼女だって「無理なら諦める」と言っている。けれど、その言葉は僕にとっての救いではなく、試練だった。僕が行かなければ、彼女は僕という存在をその夜の雪と一緒に消し去ってしまうのではないか。そんな得体の知れない恐怖が、僕を運転席へと向かわせた。
一時間以上かけて、雪の降り積もる道を走る。
助手席に座る彼女は、僕のことなど見ていない。彼女の心はすでに、亀有で待つ男の元へ飛んでいる。
嫌なことがあったのか、ただ寂しさに耐えかねたのか。理由は何でもよかった。ただ、僕が「別の男の元へ彼女を運ぶ道具」に成り下がっているという事実だけが、冷たい風とともに車内に充満していた。
彼女を降ろした後の帰り道は、まさに地獄だった。
首都高は凍結のために全面閉鎖。
下道に降りれば、橋の上で車が立ち往生し、迂回を繰り返すたびに東京の知らない路地へと迷い込む。信号でブレーキを踏むたびに、タイヤが虚しく氷の上を滑り、死の予感が背中を撫でる。
人生で、これほどまでに怖い道を走ったことはなかった。
なぜ、僕はここまでしているのか。
別の男に抱かれに行く女を、なぜ僕は命をかけて送り届けているのか。
疲労困憊のピークで、凍りついたフロントガラスの向こう側を見つめながら、僕は自分が底なしの泥濘にハマっていることを確信した。
愛だとか、善意だとか、そんな綺麗な言葉で飾ることはもうできない。
僕はただ、彼女という「毒」に侵され、彼女のために傷つくことでしか、自分の生を実感できなくなっていたのだ。
明け方、ようやく辿り着いた家の前でエンジンを切った時、車内にはまだ、彼女が残していった微かな匂いだけが漂っていた。
関東には珍しい大雪が、街を白く沈黙させていた日だった。
テレビのニュースキャスターが「不要不急の外出は控えてください」と繰り返す声を、僕は他人事のように聞いていた。けれど、彼女からのLINE一通で、その「不要不急」は僕にとっての「至上命令」へと変わる。
「亀有に行きたい。彼氏のところ」
時刻はとうに日付を越えようとしていた。
「雪だから無理だ」と言えば済む話だ。彼女だって「無理なら諦める」と言っている。けれど、その言葉は僕にとっての救いではなく、試練だった。僕が行かなければ、彼女は僕という存在をその夜の雪と一緒に消し去ってしまうのではないか。そんな得体の知れない恐怖が、僕を運転席へと向かわせた。
一時間以上かけて、雪の降り積もる道を走る。
助手席に座る彼女は、僕のことなど見ていない。彼女の心はすでに、亀有で待つ男の元へ飛んでいる。
嫌なことがあったのか、ただ寂しさに耐えかねたのか。理由は何でもよかった。ただ、僕が「別の男の元へ彼女を運ぶ道具」に成り下がっているという事実だけが、冷たい風とともに車内に充満していた。
彼女を降ろした後の帰り道は、まさに地獄だった。
首都高は凍結のために全面閉鎖。
下道に降りれば、橋の上で車が立ち往生し、迂回を繰り返すたびに東京の知らない路地へと迷い込む。信号でブレーキを踏むたびに、タイヤが虚しく氷の上を滑り、死の予感が背中を撫でる。
人生で、これほどまでに怖い道を走ったことはなかった。
なぜ、僕はここまでしているのか。
別の男に抱かれに行く女を、なぜ僕は命をかけて送り届けているのか。
疲労困憊のピークで、凍りついたフロントガラスの向こう側を見つめながら、僕は自分が底なしの泥濘にハマっていることを確信した。
愛だとか、善意だとか、そんな綺麗な言葉で飾ることはもうできない。
僕はただ、彼女という「毒」に侵され、彼女のために傷つくことでしか、自分の生を実感できなくなっていたのだ。
明け方、ようやく辿り着いた家の前でエンジンを切った時、車内にはまだ、彼女が残していった微かな匂いだけが漂っていた。