境界線の独白
第6章:境界線の外側、産声の届く場所
彼女の周りには、いつも過去の男たちの影が濃く落ちていた。
信じがたいことに、彼女は籍を入れたばかりの旦那と、かつて心身を病ませるほど執着していた「元カレ」を、三人で引き合わせたという。長く連れ添った夫婦のように振る舞う二人を横で見つめる夫の心境は、察するに余りある。彼が「自分の子じゃないかもしれない」と疑った背景には、彼女の無垢ゆえの、あまりに無自覚で残酷な奔放さがあった。
僕は、その歪な円陣の中にさえ入ることはなかった。相変わらず病院の駐車場で待ち、診察代を払い、彼女が漏らす不満を受け止める。「もうすぐ終わりが来る」 そう自分を納得させながら、彼女に出会えたことへの感謝だけを頼りに、僕は自分の心を削り続けていた。
やがて、その日は訪れた。
無事に産声が上がったと、彼女からLINEが届いた。画面には、生まれたばかりの赤ん坊と彼女の写真。「可愛いね」とありきたりな返信を送りながらも、僕の心は冷めていた。その子は、僕から彼女を遠ざける象徴のように見えていた。
初めてその子と対面したのは、退院してしばらく経ってからのことだった。 「抱いてみて」 彼女に促されたけれど、僕はどうしても腕を伸ばせなかった。抱き方が分からないからではない。その柔らかな体温に触れてしまったら、僕が守ってきた「境界線」が崩れてしまう。この子は、僕が踏み入れてはいけない、彼女の新しい地獄と再生の境界線。 抱いちゃいけない。本能がそう告げていた。
出産を経て、彼女の「死にたい」という四文字は激減したが、家庭という箱は内側から腐り始めた。 彼女は、夫を試すために家に隠しカメラを仕掛けた。 「寝る」と言って電話を切った夫が、実は深夜までゲームに興じている姿。 「絶対にしない」と約束したオナニーを隠れてしている姿。 さらに夫のインスタグラムを覗けば、嘘をついて女友達と二人きりで会う約束まで並んでいた。
「二人で会うなら言ってほしい、隠し事はしないでほしい」そんな彼女の切実な願いは、夫の稚拙な嘘によって踏みにじられた。カメラのレンズ越しに暴かれた夫の裏切りに、彼女は決定的な絶望を覚えたようだった。
ある日のこと、夫は男友達と3人で会うと言って出かけた。
例のごとく、彼女はインスタで夫が女の子とやり取りをしているのを垣間見ていた。
そこには【2人で会っている事実をいかに3人で会っていたことにするか】という隠蔽を示唆する内容の会話が映し出されていた。
たまたま僕との食事中にその事実を突きつけられた彼女は、血の気が引いた顔で箸を置いた。
「……もう、あの家に帰りたくない」
今にもこぼれ落ちそうな涙を堪え僕にそう言った。
僕は矢継ぎ早に食事と会計を済ませ、彼女を助手席に乗せた。行き先は、彼女の姉の家。夜の街を走りながら、僕は彼女の行き場のない孤独を再び背負う覚悟をしていた。
彼女の周りには、いつも過去の男たちの影が濃く落ちていた。
信じがたいことに、彼女は籍を入れたばかりの旦那と、かつて心身を病ませるほど執着していた「元カレ」を、三人で引き合わせたという。長く連れ添った夫婦のように振る舞う二人を横で見つめる夫の心境は、察するに余りある。彼が「自分の子じゃないかもしれない」と疑った背景には、彼女の無垢ゆえの、あまりに無自覚で残酷な奔放さがあった。
僕は、その歪な円陣の中にさえ入ることはなかった。相変わらず病院の駐車場で待ち、診察代を払い、彼女が漏らす不満を受け止める。「もうすぐ終わりが来る」 そう自分を納得させながら、彼女に出会えたことへの感謝だけを頼りに、僕は自分の心を削り続けていた。
やがて、その日は訪れた。
無事に産声が上がったと、彼女からLINEが届いた。画面には、生まれたばかりの赤ん坊と彼女の写真。「可愛いね」とありきたりな返信を送りながらも、僕の心は冷めていた。その子は、僕から彼女を遠ざける象徴のように見えていた。
初めてその子と対面したのは、退院してしばらく経ってからのことだった。 「抱いてみて」 彼女に促されたけれど、僕はどうしても腕を伸ばせなかった。抱き方が分からないからではない。その柔らかな体温に触れてしまったら、僕が守ってきた「境界線」が崩れてしまう。この子は、僕が踏み入れてはいけない、彼女の新しい地獄と再生の境界線。 抱いちゃいけない。本能がそう告げていた。
出産を経て、彼女の「死にたい」という四文字は激減したが、家庭という箱は内側から腐り始めた。 彼女は、夫を試すために家に隠しカメラを仕掛けた。 「寝る」と言って電話を切った夫が、実は深夜までゲームに興じている姿。 「絶対にしない」と約束したオナニーを隠れてしている姿。 さらに夫のインスタグラムを覗けば、嘘をついて女友達と二人きりで会う約束まで並んでいた。
「二人で会うなら言ってほしい、隠し事はしないでほしい」そんな彼女の切実な願いは、夫の稚拙な嘘によって踏みにじられた。カメラのレンズ越しに暴かれた夫の裏切りに、彼女は決定的な絶望を覚えたようだった。
ある日のこと、夫は男友達と3人で会うと言って出かけた。
例のごとく、彼女はインスタで夫が女の子とやり取りをしているのを垣間見ていた。
そこには【2人で会っている事実をいかに3人で会っていたことにするか】という隠蔽を示唆する内容の会話が映し出されていた。
たまたま僕との食事中にその事実を突きつけられた彼女は、血の気が引いた顔で箸を置いた。
「……もう、あの家に帰りたくない」
今にもこぼれ落ちそうな涙を堪え僕にそう言った。
僕は矢継ぎ早に食事と会計を済ませ、彼女を助手席に乗せた。行き先は、彼女の姉の家。夜の街を走りながら、僕は彼女の行き場のない孤独を再び背負う覚悟をしていた。