旦那様、そろそろ離縁のご準備を〜契約結婚三年目、満了日を目前にして旦那様の様子がどこか変です〜

 すると、そのとき。背後で扉が小さく軋む音がした。
 振り向くと、アリスが盆を抱えて立っていた。湯気の立つカップから、甘い香りが漂ってくる。

「あなた、まだ起きていたの? 休んでいいって言ったのに」

 眉を寄せるソフィアに、アリスは柔らかく微笑んだ。

「奥様が悩んでいるときに、私だけ眠ってなんていられません」

 差し出されたカップを見つめ、ソフィアは小さく息を呑む。

「どうぞ、ホットココアです。昔はよく、飲まれていましたよね」
「……そうね。……でも――」
「いいじゃないですか。このお屋敷の主は奥様です。何人(なんびと)たりとも、奥様のなさることを止められる者はおりません。――あ、一人だけいらっしゃいましたね、旦那様が。でも、旦那様は奥様がココアを飲むことを、咎めるような方ではないと思います」
「…………」

〝咎めるような方ではない〟――その言葉に、ソフィアはきゅっと唇を結んだ。
 確かにアリスの言うとおりだ。レイモンドは()のように、〝虫歯になるから〟という理由で、ココアを禁止することはないだろう。

 ソフィアはおずおずとカップを受け取り、小さく礼を言った。

「ありがとう。いただくわね」
「はい、奥様」

 アリスはそのまま隣に立ち、ソフィアと共に夜空を見上げる。
 そして、不意に口を開いた。

「……覚えていらっしゃいますか? 私が、()()()に拾っていただいたばかりの頃のこと」
「……え?」

 不意の言葉に、ソフィアは両目を瞬いた。 
 急にどうしたのだろう。アリスに〝お嬢様〟と呼ばれるのは、三年ぶりだ。
 戸惑うソフィアをよそに、アリスは濃紺の空の彼方を見つめ、懐かしげに目を細める。

「私、お嬢様に拾っていただくまで、花売りしかしたことがなくて……文字も読めず、家事もろくにできませんでした。屋敷に迎えていただいても、役立たずで、ここにいていいんだろうかって、迷惑なんじゃないかって、いつも怯えていて……。でもそんな私に、お嬢様は笑って言ってくださったんです。『誰だって最初は上手くいかないものよ。わたしだって、掃除や洗濯、お料理はできないわ。やったことないんだもの』って」
「…………」
「でも、『読み書きとお裁縫なら教えてあげる』って。私ができるようになるまで、根気よく教えてくださいました。初めて弟のズボンを自分で縫ったとき、仕上がりは正直あまりいいとは言えなかったけど、弟は凄く喜んでくれて……。私、本当に嬉しかったんです」
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