旦那様、そろそろ離縁のご準備を〜契約結婚三年目、満了日を目前にして旦那様の様子がどこか変です〜
確かに、そんなこともあった。
あの頃の自分は、母の厳しい教育方針のもとで、ピアノや刺繍といった「貴族の子女らしいこと」ばかりを仕込まれ、乗馬や外遊びは一切許されなかった。
だからこそ、自分にできることといえば刺繍くらい。その刺繍を発展させて、母の目を盗んでは針子の真似事をしていた。布を解き、縫い直し、小さな袋や裾上げを試すのがひそかな楽しみだったのだ。
――これなら、アリスに教えられる。もし彼女がいつか独り立ちすることになったとしても、裁縫ができれば食べていくのに困らない。そう思って針を手渡した日のことを、ソフィアははっきりと思い出していた。
「私は、お嬢様のお側にいられて幸せです。だから、私、お嬢様にも幸せになってほしい。どうか、ご自分の望む道を選んでください」
「……アリス」
胸の奥が熱くなる。アリスの言葉は、慰めではなく、願いそのものだった。
「ねぇ、お嬢様? お嬢様が今、一番望まれていることは何ですか? お嬢様はどうしたいですか? イシュ様はああおっしゃっておりましたし、私も、フェリクス様のおられる帝国に渡ることは反対です。でも、選択肢は他にも沢山あるはずです。例えば……あと二年、このままここで過ごすとか」
「……!」
ソフィアは息を呑んだ。
確かに、その選択肢を考えなかったと言えば嘘になる。
この国の貴族社会や慣習は好きになれないが、この屋敷での生活は決して悪いものではなかった。
最初は面倒だったヴィンダム家との親戚づきあいも、今ではすっかり慣れたものだ。使用人も自分を慕ってくれているし、貴婦人方との関係も良好だ。
――だが、やはり残るのはいけない気がする。
もし離縁を二年後に伸ばしたいと言ったら、レイモンドは喜んで受け入れてくれるだろう。だが、それは彼の好意を利用することになる。いらぬ期待を抱かせてしまう。
それは、契約満了までの残り一ヵ月を一週間に縮める以上に、不誠実なことに思えた。
「…………」
(やっぱり、イシュと一緒に行くしかない。……そう思ってるのに、どうしてこんなに胸が苦しいの)
夜風が頬を撫でる。
ソフィアはカップを両手で包み込みながら、胸の奥に芽生えた初めての感情を、まだ何一つ消化できずにいた。