世間ではぐうたら令嬢ですが、実は拳姫と戦場で呼ばれております。
第11話 幕間 ざわめく王都
アークフェン王国、王城の作戦会議室。
戦地から届いた軍報と、赤い印の増え続けた地図が、重苦しい空気の中で机いっぱいに広げられていた。
「……また、討伐失敗か」
低く落とされた声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいる。
第二王子にして王太子、ディオン・アークフェンは報告書をめくる手を止めずに言った。
「は……中部平原の討伐部隊は壊滅を避けるため撤退。西部前線でも深部侵入を断念。北方の補給路では護送隊が魔物の群れに襲われ、物資の一部を放棄したとのことです」
淡々と読み上げられる報告のひとつひとつが、まるで鈍器のように部屋の空気を叩いていく。
失敗。
撤退。
損耗。
補給遅延。
被害拡大。
ここ数か月――アークフェン王国軍は、嘗ての勢いを完全に失っていた。
各地で魔物の群れが活発化し、討伐成功率は目に見えて低下している。
防衛線はかろうじて維持しているものの、以前なら確実に制圧できていた規模の群れにすら押し返される始末だった。
「……なぜだ」
ディオンの声が低く沈む。
「戦力が急減したわけでもない、指揮系統が崩壊したわけでもない。なのに、なぜここまで戦果が落ちる?」
苛立ち混じりの吐息が静寂に沈む。
だが、重臣たちは誰もすぐには口を開けなかった。
王太子の機嫌を恐れているだけではない。
皆、どこかで答えに気づき始めていたからだ。
やがて、その中の一人が、おそるおそる口を開く。
「……殿下。民の間ではある噂が広まっております」
「噂?」
「は……『拳姫が姿を消したからだ』と」
その瞬間、ディオンの目が細くなる。
「……拳姫、だと?」
「魔物討伐の英雄。拳ひとつで魔獣を砕く女戦士……正体不明ながら、前線ではその存在が戦局を支えていたのではないか、と。兵たちの間でも、その名を口にする者は少なくありません」
「はっ……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるような声だった。
「王家が把握していない戦士一人で戦局が左右されるものか」
そう言い切った。
だが、その言葉には確信よりも、むしろ焦りに似た響きが混じっていた。
――【拳姫《こぶしひめ》】。
その名は、ディオンの耳にも何度となく届いていた。
前線の兵たちが囁く、正体不明の英雄。
拳だけで魔物を砕き、絶望しかけた戦場をひっくり返す存在。
そして、その名に触れた瞬間、どうしても脳裏によぎる女がいる。
――レイリア・エルヴァーン。
表向きは【ぐうたら令嬢】。
社交界では居眠りばかりで、王族の婚約者として不適格だと嘲られていた女。
だが、本当にそうだったのか。
あの女は、妙だった。
あまりにも妙だった。
婚約破棄を告げられても動じず、王太子である自分を前にしても、媚びも、恐れも、未練も見せなかった。
怒りも悲しみもなく、まるで最初から自分など眼中になかったかのように去っていった。
その時の言葉が、今になって耳の奥で鮮明によみがえる。
『まさか殿下、私があなたのことを好きだと思っていたのですか?』
『――だって私、あなたのお名前を一度もお呼びしたことがありませんよ?』
あの静かな声。
あの冷えた目。
まるで、最初からすべてを見下ろしていたかのような、あの無感動な視線。
「……まさか」
ディオンの指が、報告書の上で止まる。
嫌な想像が、形を取り始めていた。
いや、あり得ない。
あの女が【拳姫】?
あの居眠り令嬢が、戦場の英雄?
――そんな事、あるはずがない。
「…………」
だが、否定しきれない。
もし、本当にあの女が【拳姫】だったのだとしたら。
王国は、自分たちの手で戦場の切り札を追い出したことになる。
いや――それだけでは済まない。
思い出すべきだったのだ。
レイリア・エルヴァーンは侯爵家の令嬢。
そしてエルヴァーン家そのものが、王国軍における武門の中核だったことを。
父グレイス・エルヴァーン。
かつて王国騎士団副団長を務め、《大剣の獅子》の異名で戦場を駆けた男。
母カティア・エルヴァーン。
元王女にして外交の才を持ち、なおかつ槍と風魔法に秀でた戦姫。
長女セリナ。
《雷の魔女》と呼ばれる魔法剣士。
次女リヴィア。
《麗弓姫》の名を持つ遠距離戦の天才射手。
長男アレク。
《鉄壁の騎士》として防衛線を支えていた守護の要。
そして――レイリア。
もし彼女までが【拳姫】であったなら。
ディオンの背筋を、冷たいものが走った。
王国は、たったひとつの婚約破棄で、ひとりの令嬢を失ったのではない。
前線を押し返す剣を失い。
戦場を支える槍を失い。
遠距離から敵を射抜く目を失い。
防衛線を支える盾を失い。
そして、絶望を覆す最後の拳まで失ったのだ。
家ひとつではない。
軍の骨格そのものが抜け落ちたに等しい。
「……馬鹿な」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
その時ようやく、ディオンは理解し始めていた。
自分が捨てたのは、怠惰な婚約者などではなかったのだと。
王国そのものを支えていた可能性のある一族を、侮辱し、追い払い、隣国へ渡したのだと。
しかも、その移住先は――アルディナ王国。
敵ではない。
だが、味方でもない。
少なくとも今のアークフェンにとって、喜んで戦力を貸してくれる相手ではなくなった。
エルヴァーン家は去った。
忠誠も、信頼も、恩義も、すべて踏みにじられたあとで。
今さら呼び戻そうとしても、戻るはずがない。
謝罪しても遅い。
弁明しても無駄だ。
彼らはもう、この国に見切りをつけている。
そして何より恐ろしいのは――その原因の中心に、自分がいるということだった。
婚約破棄。
侮辱。
見下し。
軽視。
あの女が黙っていたのを、何も持たぬ者の無力だと勝手に決めつけた。
だが実際は違ったのかもしれない。
何も言わなかったのではない。
言う価値すらないと思われていたのだ。
(……あれほど優雅に、堂々と、何の未練もなく去っていった女が……もし戦場の英雄だったとしたら?)
ぞわり、と寒気が背を這う。
自分は何をした。
何を見誤った。
何を手放した。
しかも、その代わりに自分の隣にいるのは、戦場に何の影響も与えられない平民の娘だけだ。
思考がそこまで至った瞬間、ディオンの顔色がさらに悪くなる。
彼は気づいてしまったのだ。
愛だの、清らかさだの、心の美しさだのと酔っていたあいだに、国家の現実は容赦なく崩れていたことに。
王族として見るべきものを見ず、聞くべき声を聞かず、切ってはならないものを切り捨てた。
その結果が、今この机の上に積み上がる敗報だった。
「……くだらん」
ディオンは絞り出すように言う。
「そんな妄言に、意味があるものか」
自分に言い聞かせるように。
祈るように。
否定しなければ立っていられないかのように。
だが、現実は報告書の形で目の前に積み上がっていた。
失敗。
撤退。
損耗。
救援要請。
不足する戦力。
増え続ける犠牲。
王城の外では、すでに噂が広がり始めている。
「拳姫はどこへ行った?」
「なぜ最近、王国軍は勝てない?」
「エルヴァーン家がいなくなってからおかしくなったんじゃないか?」
「王家は何をしていた?」
「まさか、自分たちで英雄を追い出したのか?」
街のざわめきは、やがて王宮の壁を越え、貴族社会へ、軍へ、そして外交の場へと波紋を広げていく。
アークフェン王国は、気づかぬうちに、あまりにも大きなものを失っていた。
そして、その損失の大きさを最も理解し始めてしまったのは――他ならぬ、ディオン・アークフェン自身だった。
戦地から届いた軍報と、赤い印の増え続けた地図が、重苦しい空気の中で机いっぱいに広げられていた。
「……また、討伐失敗か」
低く落とされた声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいる。
第二王子にして王太子、ディオン・アークフェンは報告書をめくる手を止めずに言った。
「は……中部平原の討伐部隊は壊滅を避けるため撤退。西部前線でも深部侵入を断念。北方の補給路では護送隊が魔物の群れに襲われ、物資の一部を放棄したとのことです」
淡々と読み上げられる報告のひとつひとつが、まるで鈍器のように部屋の空気を叩いていく。
失敗。
撤退。
損耗。
補給遅延。
被害拡大。
ここ数か月――アークフェン王国軍は、嘗ての勢いを完全に失っていた。
各地で魔物の群れが活発化し、討伐成功率は目に見えて低下している。
防衛線はかろうじて維持しているものの、以前なら確実に制圧できていた規模の群れにすら押し返される始末だった。
「……なぜだ」
ディオンの声が低く沈む。
「戦力が急減したわけでもない、指揮系統が崩壊したわけでもない。なのに、なぜここまで戦果が落ちる?」
苛立ち混じりの吐息が静寂に沈む。
だが、重臣たちは誰もすぐには口を開けなかった。
王太子の機嫌を恐れているだけではない。
皆、どこかで答えに気づき始めていたからだ。
やがて、その中の一人が、おそるおそる口を開く。
「……殿下。民の間ではある噂が広まっております」
「噂?」
「は……『拳姫が姿を消したからだ』と」
その瞬間、ディオンの目が細くなる。
「……拳姫、だと?」
「魔物討伐の英雄。拳ひとつで魔獣を砕く女戦士……正体不明ながら、前線ではその存在が戦局を支えていたのではないか、と。兵たちの間でも、その名を口にする者は少なくありません」
「はっ……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるような声だった。
「王家が把握していない戦士一人で戦局が左右されるものか」
そう言い切った。
だが、その言葉には確信よりも、むしろ焦りに似た響きが混じっていた。
――【拳姫《こぶしひめ》】。
その名は、ディオンの耳にも何度となく届いていた。
前線の兵たちが囁く、正体不明の英雄。
拳だけで魔物を砕き、絶望しかけた戦場をひっくり返す存在。
そして、その名に触れた瞬間、どうしても脳裏によぎる女がいる。
――レイリア・エルヴァーン。
表向きは【ぐうたら令嬢】。
社交界では居眠りばかりで、王族の婚約者として不適格だと嘲られていた女。
だが、本当にそうだったのか。
あの女は、妙だった。
あまりにも妙だった。
婚約破棄を告げられても動じず、王太子である自分を前にしても、媚びも、恐れも、未練も見せなかった。
怒りも悲しみもなく、まるで最初から自分など眼中になかったかのように去っていった。
その時の言葉が、今になって耳の奥で鮮明によみがえる。
『まさか殿下、私があなたのことを好きだと思っていたのですか?』
『――だって私、あなたのお名前を一度もお呼びしたことがありませんよ?』
あの静かな声。
あの冷えた目。
まるで、最初からすべてを見下ろしていたかのような、あの無感動な視線。
「……まさか」
ディオンの指が、報告書の上で止まる。
嫌な想像が、形を取り始めていた。
いや、あり得ない。
あの女が【拳姫】?
あの居眠り令嬢が、戦場の英雄?
――そんな事、あるはずがない。
「…………」
だが、否定しきれない。
もし、本当にあの女が【拳姫】だったのだとしたら。
王国は、自分たちの手で戦場の切り札を追い出したことになる。
いや――それだけでは済まない。
思い出すべきだったのだ。
レイリア・エルヴァーンは侯爵家の令嬢。
そしてエルヴァーン家そのものが、王国軍における武門の中核だったことを。
父グレイス・エルヴァーン。
かつて王国騎士団副団長を務め、《大剣の獅子》の異名で戦場を駆けた男。
母カティア・エルヴァーン。
元王女にして外交の才を持ち、なおかつ槍と風魔法に秀でた戦姫。
長女セリナ。
《雷の魔女》と呼ばれる魔法剣士。
次女リヴィア。
《麗弓姫》の名を持つ遠距離戦の天才射手。
長男アレク。
《鉄壁の騎士》として防衛線を支えていた守護の要。
そして――レイリア。
もし彼女までが【拳姫】であったなら。
ディオンの背筋を、冷たいものが走った。
王国は、たったひとつの婚約破棄で、ひとりの令嬢を失ったのではない。
前線を押し返す剣を失い。
戦場を支える槍を失い。
遠距離から敵を射抜く目を失い。
防衛線を支える盾を失い。
そして、絶望を覆す最後の拳まで失ったのだ。
家ひとつではない。
軍の骨格そのものが抜け落ちたに等しい。
「……馬鹿な」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
その時ようやく、ディオンは理解し始めていた。
自分が捨てたのは、怠惰な婚約者などではなかったのだと。
王国そのものを支えていた可能性のある一族を、侮辱し、追い払い、隣国へ渡したのだと。
しかも、その移住先は――アルディナ王国。
敵ではない。
だが、味方でもない。
少なくとも今のアークフェンにとって、喜んで戦力を貸してくれる相手ではなくなった。
エルヴァーン家は去った。
忠誠も、信頼も、恩義も、すべて踏みにじられたあとで。
今さら呼び戻そうとしても、戻るはずがない。
謝罪しても遅い。
弁明しても無駄だ。
彼らはもう、この国に見切りをつけている。
そして何より恐ろしいのは――その原因の中心に、自分がいるということだった。
婚約破棄。
侮辱。
見下し。
軽視。
あの女が黙っていたのを、何も持たぬ者の無力だと勝手に決めつけた。
だが実際は違ったのかもしれない。
何も言わなかったのではない。
言う価値すらないと思われていたのだ。
(……あれほど優雅に、堂々と、何の未練もなく去っていった女が……もし戦場の英雄だったとしたら?)
ぞわり、と寒気が背を這う。
自分は何をした。
何を見誤った。
何を手放した。
しかも、その代わりに自分の隣にいるのは、戦場に何の影響も与えられない平民の娘だけだ。
思考がそこまで至った瞬間、ディオンの顔色がさらに悪くなる。
彼は気づいてしまったのだ。
愛だの、清らかさだの、心の美しさだのと酔っていたあいだに、国家の現実は容赦なく崩れていたことに。
王族として見るべきものを見ず、聞くべき声を聞かず、切ってはならないものを切り捨てた。
その結果が、今この机の上に積み上がる敗報だった。
「……くだらん」
ディオンは絞り出すように言う。
「そんな妄言に、意味があるものか」
自分に言い聞かせるように。
祈るように。
否定しなければ立っていられないかのように。
だが、現実は報告書の形で目の前に積み上がっていた。
失敗。
撤退。
損耗。
救援要請。
不足する戦力。
増え続ける犠牲。
王城の外では、すでに噂が広がり始めている。
「拳姫はどこへ行った?」
「なぜ最近、王国軍は勝てない?」
「エルヴァーン家がいなくなってからおかしくなったんじゃないか?」
「王家は何をしていた?」
「まさか、自分たちで英雄を追い出したのか?」
街のざわめきは、やがて王宮の壁を越え、貴族社会へ、軍へ、そして外交の場へと波紋を広げていく。
アークフェン王国は、気づかぬうちに、あまりにも大きなものを失っていた。
そして、その損失の大きさを最も理解し始めてしまったのは――他ならぬ、ディオン・アークフェン自身だった。