世間ではぐうたら令嬢ですが、実は拳姫と戦場で呼ばれております。
第24話 仕えるものは、何か
その夜、エルヴァーン家の屋敷には静かな風が吹いていた。
昼のあわただしさも、夕刻の作戦会議の重たい空気も、今はもう屋敷の奥に沈んでいる。
けれど、伝えられた情報の重みまでは消えていなかった。
セリナ、レイリア、ゼロス――三人での作戦会議を終えたあとのことだった。
魔族のリリスがアークフェン王国によって拘束され、【魔力の抽出】という非人道的な実験に利用されている。
その事実は、聞いた者の胸に冷たい棘のように残るには十分すぎた。
ゼロスは一人、バルコニーへ出ていた。
夜気はひんやりとしていて、火照った思考を冷ますにはちょうどいい。
見上げた先では、丸い月が静かに高く昇っている。雲は少なく、夜空はどこまでも澄んでいた。
(……本当に、自分は正しい道を歩いているのだろうか)
胸の奥で、その問いが何度も繰り返される。
隣国が、魔族をただの【資源】として扱っている。
命あるものを、力あるものを、使い潰すための部品のように見ている。
その現実は、彼の中にあった【騎士道】の輪郭を静かに崩していった。
彼が剣を捧げてきたものは、本当に【正義】だったのか。
それとも、ただ疑いもせず従ってきただけの、盲信にすぎなかったのか。
「……結構、悩んでる顔してますね。ゼロス様」
不意に背後からかけられた声に、ゼロスの肩がわずかに揺れた。
振り返れば、月光を背にしたレイリアが立っている。
いつものように、どこか気だるげで、肩の力が抜けた空気をまとっている。
けれど、その瞳だけは不思議なほどまっすぐだった。
眠たげな表情の奥に、相手の内側を見抜くような静けさがある。
「なんとなく……そんな気がしたから。月も綺麗だし、ね」
そう言って、彼女はゼロスの隣へ並んだ。
手すりにもたれた拍子に、さらりと髪が揺れる。
夜風に乗って、やわらかな香りがかすかに届いた。
ゼロスはしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。
「……仕えるというのは、こうも曖昧なものだったのかと……少し考えていました」
「曖昧?」
レイリアが首を傾げる。
その仕草があまりにも自然で、少しだけ張りつめていた心がゆるむ。
ゼロスは低く息を吐いた。
「国に仕える。主君に忠義を尽くす。かつての私は、それがすべてだと思っていました」
「うん」
「けれど今は分からない。何を守るために剣を振るうべきか、その境界が……見えなくなってきています」
迷い――それはたしかに、今のゼロスの中にあった。
騎士として歩んできた時間が長かったからこそ、その揺らぎは重い。
剣を握る理由を失うことは、彼にとって自分自身の輪郭がぼやけることに等しかった。
レイリアはしばらく彼を見つめていた。
やがて視線を空へ戻し、ぽつりと言う。
「……私もさ、似たようなものだよ」
ゼロスが視線を向けると、彼女は手すりに顎を乗せたまま月を見ていた。
白い横顔が、夜の光の中でやわらかく浮かんでいる。
「拳を振るうこと自体は、昔から変わらない。でも、誰のために振るうのかって……今でも、ときどき分かんなくなる」
「レイリア様も……?」
「うん」
彼女は自分の胸を軽く拳で叩くようにしながら続けた。
「戦う理由って、強くなるためでもあったし、誰かのためでもあったはずなのに。最近は、ただ【壊したい】って思う相手が増えてきちゃってさ。たとえば……アークフェンとか」
「……それは、怒っているということですか?」
「たぶんね」
レイリアは苦笑するように目を細めた。
「あの国にはいろいろ縛られたし、うんざりもした。けど、それでも……本当に壊していいのかって悩む時はあるよ」
その声は淡々としていた。
けれど、その奥にはたしかな熱と言うモノがあった。
ゼロスは、月光を受けた彼女の横顔をじっと見つめる。
強くて、真っ直ぐで、自由に見えて。
その実、自分の中の答えをまだ探し続けている。
思っていた以上に不器用で、だからこそ目が離せない。
「……不思議ですね」
「なにが?」
「あなたと話していると、少しだけ……答えが見えてくる気がするんです」
「……それって褒めてる?」
「……さあ。どうでしょう」
「またごまかした」
レイリアは小さく笑った。
けれど、その笑みはいつもより少しやわらかい。
からかうようでいて、どこか安心したようでもある。
「でも、ありがと。ゼロス様が迷ってるなら、私、ちょっとだけヒントあげるよ」
「ヒント?」
「うん」
そう言って、レイリアはほんの少しだけゼロスのほうへ向き直った。
肩と肩の距離が、僅かに近づく。
触れ合うほどではない。
けれど、さっきまでよりもずっと近い。
「もし【仕える】って言葉が重すぎるなら、【並んで戦う】って考えてみたら?」
ゼロスは目を見開いた。
「隣に並んで、同じものを見て、一緒に戦うの。騎士とか、魔族とか、そういう立場は一回置いといてさ」
「……」
「守りたいって思ったなら、迷わず戦えばいい。少なくとも私は、そういうほうが分かりやすいなって思う」
そこでレイリアは少しだけ言葉を切った。
月明かりの中、ふたりの視線が静かに重なる。
「それに……」
彼女はやわらかく笑った。
「あなたのこと、嫌いじゃないから」
一瞬、ゼロスは言葉を失った。
その言葉は甘くはない。
けれど、やさしく胸へ落ちてくる。
戦場で見せるどの表情よりも穏やかなその笑みに、心の奥のどこかが静かに揺れた。
風が吹き抜ける。
夜空を、細い雲がひとすじ流れていった。
「……ありがとう、レイリア様」
「うん」
そこでレイリアは、少し考えるように目を細めたあと、そっと言い足す。
「だから、そんなに一人で抱え込まなくていいよ。少しくらいなら……隣で悩んであげる」
軽い口調のはずなのに、そのひと言は不思議なくらいあたたかかった。
ゼロスはわずかに目を伏せ、それから小さく笑う。
「それは……心強いですね」
「でしょ?」
レイリアもつられるように笑った。
その拍子に、夜風で揺れた彼女の袖が、ほんのわずかにゼロスの腕へ触れる。
かすかな接触――それだけなのに、ゼロスの心臓は小さく跳ねた。
けれどレイリアは気づいていないのか、あるいは気づいていて何も言わないのか。
ただ自然な顔で、月の光を見上げている。
ほんの僅かだったが、その瞬間、ふたりのあいだにあった距離がやわらいだ気がした。
「……じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
レイリアは小さく手を振ると、軽い足取りで廊下へ戻っていく。
その後ろ姿を、ゼロスはしばらく見つめ続けていた。
(【並んで戦う】……か)
彼の中にあった騎士としての価値観が、静かに形を変え始めていた。
忠義と命令だけではない、自分自身の意思で立つということ。
誰かの隣に並ぶということ。
そしてそれと同時に、彼女の隣にいたいという想いもまた、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
昼のあわただしさも、夕刻の作戦会議の重たい空気も、今はもう屋敷の奥に沈んでいる。
けれど、伝えられた情報の重みまでは消えていなかった。
セリナ、レイリア、ゼロス――三人での作戦会議を終えたあとのことだった。
魔族のリリスがアークフェン王国によって拘束され、【魔力の抽出】という非人道的な実験に利用されている。
その事実は、聞いた者の胸に冷たい棘のように残るには十分すぎた。
ゼロスは一人、バルコニーへ出ていた。
夜気はひんやりとしていて、火照った思考を冷ますにはちょうどいい。
見上げた先では、丸い月が静かに高く昇っている。雲は少なく、夜空はどこまでも澄んでいた。
(……本当に、自分は正しい道を歩いているのだろうか)
胸の奥で、その問いが何度も繰り返される。
隣国が、魔族をただの【資源】として扱っている。
命あるものを、力あるものを、使い潰すための部品のように見ている。
その現実は、彼の中にあった【騎士道】の輪郭を静かに崩していった。
彼が剣を捧げてきたものは、本当に【正義】だったのか。
それとも、ただ疑いもせず従ってきただけの、盲信にすぎなかったのか。
「……結構、悩んでる顔してますね。ゼロス様」
不意に背後からかけられた声に、ゼロスの肩がわずかに揺れた。
振り返れば、月光を背にしたレイリアが立っている。
いつものように、どこか気だるげで、肩の力が抜けた空気をまとっている。
けれど、その瞳だけは不思議なほどまっすぐだった。
眠たげな表情の奥に、相手の内側を見抜くような静けさがある。
「なんとなく……そんな気がしたから。月も綺麗だし、ね」
そう言って、彼女はゼロスの隣へ並んだ。
手すりにもたれた拍子に、さらりと髪が揺れる。
夜風に乗って、やわらかな香りがかすかに届いた。
ゼロスはしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。
「……仕えるというのは、こうも曖昧なものだったのかと……少し考えていました」
「曖昧?」
レイリアが首を傾げる。
その仕草があまりにも自然で、少しだけ張りつめていた心がゆるむ。
ゼロスは低く息を吐いた。
「国に仕える。主君に忠義を尽くす。かつての私は、それがすべてだと思っていました」
「うん」
「けれど今は分からない。何を守るために剣を振るうべきか、その境界が……見えなくなってきています」
迷い――それはたしかに、今のゼロスの中にあった。
騎士として歩んできた時間が長かったからこそ、その揺らぎは重い。
剣を握る理由を失うことは、彼にとって自分自身の輪郭がぼやけることに等しかった。
レイリアはしばらく彼を見つめていた。
やがて視線を空へ戻し、ぽつりと言う。
「……私もさ、似たようなものだよ」
ゼロスが視線を向けると、彼女は手すりに顎を乗せたまま月を見ていた。
白い横顔が、夜の光の中でやわらかく浮かんでいる。
「拳を振るうこと自体は、昔から変わらない。でも、誰のために振るうのかって……今でも、ときどき分かんなくなる」
「レイリア様も……?」
「うん」
彼女は自分の胸を軽く拳で叩くようにしながら続けた。
「戦う理由って、強くなるためでもあったし、誰かのためでもあったはずなのに。最近は、ただ【壊したい】って思う相手が増えてきちゃってさ。たとえば……アークフェンとか」
「……それは、怒っているということですか?」
「たぶんね」
レイリアは苦笑するように目を細めた。
「あの国にはいろいろ縛られたし、うんざりもした。けど、それでも……本当に壊していいのかって悩む時はあるよ」
その声は淡々としていた。
けれど、その奥にはたしかな熱と言うモノがあった。
ゼロスは、月光を受けた彼女の横顔をじっと見つめる。
強くて、真っ直ぐで、自由に見えて。
その実、自分の中の答えをまだ探し続けている。
思っていた以上に不器用で、だからこそ目が離せない。
「……不思議ですね」
「なにが?」
「あなたと話していると、少しだけ……答えが見えてくる気がするんです」
「……それって褒めてる?」
「……さあ。どうでしょう」
「またごまかした」
レイリアは小さく笑った。
けれど、その笑みはいつもより少しやわらかい。
からかうようでいて、どこか安心したようでもある。
「でも、ありがと。ゼロス様が迷ってるなら、私、ちょっとだけヒントあげるよ」
「ヒント?」
「うん」
そう言って、レイリアはほんの少しだけゼロスのほうへ向き直った。
肩と肩の距離が、僅かに近づく。
触れ合うほどではない。
けれど、さっきまでよりもずっと近い。
「もし【仕える】って言葉が重すぎるなら、【並んで戦う】って考えてみたら?」
ゼロスは目を見開いた。
「隣に並んで、同じものを見て、一緒に戦うの。騎士とか、魔族とか、そういう立場は一回置いといてさ」
「……」
「守りたいって思ったなら、迷わず戦えばいい。少なくとも私は、そういうほうが分かりやすいなって思う」
そこでレイリアは少しだけ言葉を切った。
月明かりの中、ふたりの視線が静かに重なる。
「それに……」
彼女はやわらかく笑った。
「あなたのこと、嫌いじゃないから」
一瞬、ゼロスは言葉を失った。
その言葉は甘くはない。
けれど、やさしく胸へ落ちてくる。
戦場で見せるどの表情よりも穏やかなその笑みに、心の奥のどこかが静かに揺れた。
風が吹き抜ける。
夜空を、細い雲がひとすじ流れていった。
「……ありがとう、レイリア様」
「うん」
そこでレイリアは、少し考えるように目を細めたあと、そっと言い足す。
「だから、そんなに一人で抱え込まなくていいよ。少しくらいなら……隣で悩んであげる」
軽い口調のはずなのに、そのひと言は不思議なくらいあたたかかった。
ゼロスはわずかに目を伏せ、それから小さく笑う。
「それは……心強いですね」
「でしょ?」
レイリアもつられるように笑った。
その拍子に、夜風で揺れた彼女の袖が、ほんのわずかにゼロスの腕へ触れる。
かすかな接触――それだけなのに、ゼロスの心臓は小さく跳ねた。
けれどレイリアは気づいていないのか、あるいは気づいていて何も言わないのか。
ただ自然な顔で、月の光を見上げている。
ほんの僅かだったが、その瞬間、ふたりのあいだにあった距離がやわらいだ気がした。
「……じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
レイリアは小さく手を振ると、軽い足取りで廊下へ戻っていく。
その後ろ姿を、ゼロスはしばらく見つめ続けていた。
(【並んで戦う】……か)
彼の中にあった騎士としての価値観が、静かに形を変え始めていた。
忠義と命令だけではない、自分自身の意思で立つということ。
誰かの隣に並ぶということ。
そしてそれと同時に、彼女の隣にいたいという想いもまた、少しずつ輪郭を持ち始めていた。