祝福のあとで
 直が帰ってから、
 しばらくその場を動けなかった。

 玄関に残った空気は、
 もう、さっきとは違う。

 静かなのに、
 どこか満ちている。

 ひかりは、
 ゆっくり部屋に戻って、
 ソファに腰を下ろした。

 テーブルの上には、
 飲みかけのグラスと、
 片づけきれなかった気配。

 それを見て、
 小さく笑ってしまう。

 ——次は、ごはん。

 自分の口から出た言葉なのに、
 胸の奥で何度も反芻してしまう。

 料理が得意、というわけじゃない。
 仕事みたいに段取りを組めば、
 それなりにはできるけれど。

 それでも、
 「作りたい」と思ったのは、
 初めてだった。

 誰かのために、
 ちゃんと時間を使うこと。

 式の準備でも、
 仕事の延長でもなく。

 ただ、
 一緒に食べるためのごはん。

 スマートフォンを手に取って、
 レシピサイトを開く。

 閉じて、
 また開く。

 何がいいんだろう、と考えてから、
 ふと思う。

 ——食べたいもの、聞けばよかった。

 でも、
 聞かなくていい気もした。

 きっと、
 何を出しても、
 ちゃんと食べてくれる人だ。

 それが、
 わかってしまっていることが、
 少し不思議で、
 少し嬉しい。

 ひかりは、
 ソファに背中を預けて、
 目を閉じた。

 次に会うときは、
 また違う夜になる。

 同じBar Afterでも、
 同じ帰り道でもない。

 “帰らなくていい夜”。

 その約束が、
 まだ形になっていないのに、
 確かにそこにある。

 ひかりは、
 ゆっくり息を吐いた。

 焦らなくていい。
 急がなくていい。

 でも、
 もう戻らない。

 それだけは、
 はっきりしていた。
< 102 / 110 >

この作品をシェア

pagetop