祝福のあとで
ルミエールを出たのは、
 日が傾き始めた頃だった。

 直のバーに寄るつもりはなかった。
 今日は、
 ちゃんと話すために帰ろうと思っていた。

 それなのに。

 気づけば、
 足は自然に、
 いつもの通りへ向かっていた。

 Bar Afterの灯りは、
 まだ早い時間だからか、
 少し控えめだった。

 扉を押すと、
 カウンターの奥で、
 直が準備をしている。

 視線が合う。

 すぐに、
 いつもの調子で言われる。

「お疲れ」

「……お疲れさま」

 ひかりは、
 カウンターに腰を下ろした。

 グラスが置かれる前に、
 口を開く。

「今日ね」

 直は、
 手を止めずに耳を向ける。

「由里さんと、
 律さんが来た」

 一瞬。

 ほんの一瞬だけ、
 直の動きが止まった。

 氷を掴む手が、
 わずかに遅れる。

 でも、
 それはすぐに戻る。

「……ルミエールに?」

「うん。
 正式に、申し込み」

 直は、
 小さく息を吐いた。

「そうですか」

 声は、
 落ち着いている。

 驚きも、
 戸惑いも、
 表に出さない。

 でも。

 ひかりは、
 見逃さなかった。

 目線が、
 一度だけ、
 ほんのわずかに下がったこと。

 考える前の、
 無意識の反応。

「私が、
 担当することになった」

 言葉を足すと、
 直は、
 ようやくひかりを見る。

「……頼まれたんですね」

「うん」

 直は、
 何か言いかけて、
 やめた。

 その代わりに、
 グラスを置く。

 いつもより、
 少しだけ静かな音。

「無理は、
 してない?」

 仕事としての確認。

 でも、
 それだけじゃない響き。

 ひかりは、
 首を振る。

「してない。
 ちゃんと、選んだ」

 直は、
 その言葉を、
 少し時間をかけて受け取る。

「……分かりました」

 それだけ。

 否定もしない。
 助言もしない。

 ただ、
 受け止める。

 ひかりは、
 グラスを手に取ってから言った。

「ねえ」

「うん」

「一瞬だけ、
 びっくりしたでしょ」

 直は、
 否定しなかった。

「……正直に言えば」


「少し」

 それだけ。

 言い訳も、
 続きもない。

 ひかりは、
 その短さに、
 なぜか安心した。

「でも」

 直は続ける。

「仕事は仕事。
 あの二人は、
 ちゃんとした客だ」

 ひかりを見る。

「ひかりが担当なら、
 問題ない」

 評価じゃない。
 励ましでもない。

 信頼だった。

 ひかりの胸の奥で、
 何かが、
 静かに定まる。

「ありがとう」

 そう言うと、
 直は、
 ほんの少しだけ口角を上げた。

「こちらこそ」

 バーの空気は、
 いつもと変わらない。

 ジャズも、
 照明も、
 グラスの位置も。

 それでも。

 二人の間には、
 確実に、
 新しい層が重なっていた。

 仕事と、
 過去と、
 これから。

 全部を含んだまま、
 立ち続ける場所。

 ひかりは思う。

 この人となら、
 きっと、
 揺れながらでも進める。

 それを、
 初めてはっきりと、
 信じられた夜だった。
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