祝福のあとで

あの日のことを、
 ひかりは、あとから何度も思い出す。

 初めて、
 もう一泊した夜だった。

 特別な約束があったわけじゃない。

 朝になっても急ぐ必要がなくて、
 だからといって、
 何かを決めようとしたわけでもなかった。

 ただ、
 そのまま一緒にいた。

 映画を一本、途中まで観て。
 キッチンに並んで立って、
 冷蔵庫にあるもので、簡単なご飯を作った。

「これ、焦げてない?」

「ぎりぎり」

 そんな会話。

 笑って、
 食べて、
 洗い物をして。

 いつもより、
 生活みたいな時間。

 それだけだったのに。

 ——このまま続けばいいのに。

 ひかりは、
 自分でも気づかないうちに、
 そう思っていた。

 夜になって、
 部屋の明かりを落としたあと。

 触れ合うことに、
 理由はいらなかった。

 それが最後になるなんて、
 思っていなかったはずなのに。

 ——もう一度だけ。

 どこかで、
 そんなふうに思っていた気がする。

 静かで、
 急がなくて、
 確かめ合うみたいな時間。

 ひかりは、
 自分のことで精一杯だった。

 触れる温度や、
 息の近さや、
 その瞬間を逃さないことに。

 だから。

 直が、
 何か言ったような気がする。

 低い声で、
 確かに、耳元で。

 ——好きだよ。

 そう聞こえた気がした。

 でも、
 本当に言ったのかどうかは、
 分からない。

 ひかりは、
 その言葉を確かめるほどの余裕を、
 持っていなかった。

 朝になって。

 直の家から、
 そのまま仕事へ向かった。

 並んで靴を履いて、
 いつも通りの顔で。

 「いってきます」

 「気をつけて」

 それだけ。

 振り返らなかったのは、
 どちらだっただろう。

 ひかりは今でも、
 あの夜を「最後の夜」とは呼ばない。

 ただ。

 あの日を境に、
 何かが少しずつ、
 すれ違い始めたことだけは、
 はっきり覚えている。
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