祝福のあとで
第27章 終わりの音
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 その話を聞いたのは、
 午後の打ち合わせが一段落したあとだった。

「ひかりさん」

 上司に呼び止められて、
 軽い確認くらいだろうと思っていた。

 応接スペース。
 コーヒーの湯気。

 いつもと同じ景色。

「実はね」

 そう切り出されて、
 海外拠点の名前が出た瞬間、
 ひかりは、少しだけ背筋を伸ばした。

 ——海外。

 遠い言葉のはずなのに、
 なぜか、すぐに理解できた。

「正式な辞令は、まだ先になるけど」

「向こうでの立ち上げに、
 ひかりさんの経験が必要で」

 期待と、評価。
 どちらも、はっきり伝わる言い方だった。

 悪い話じゃない。
 むしろ、光栄だ。

「急に決めなくていいから」

「少し考えて、返事をもらえれば」

 上司はそう言って、
 話を締めくくった。

 席を立ってからも、
 ひかりの頭は、妙に静かだった。

 驚きよりも、
 戸惑いよりも先に、

 ——ああ。

 そう思ってしまった。

 いい機会かもしれない。

 逃げたいわけじゃない。
 忘れたいわけでもない。

 ただ。

 このままここにいたら、
 自分が選ばれるのを、
 ずっと待ち続けてしまう。

 直の言葉。
 直の沈黙。
 直の、あの仕事の顔。

 どれも好きだった。
 今も、好きだ。

 でも、
 それだけじゃ足りないことも、
 ひかりは分かっていた。

 ——誰かの幸せを、
 願ってしまえるくらいには。

 デスクに戻って、
 パソコンの画面を見つめる。

 メールも、
 資料も、
 目に入らない。

 ひかりは、
 そっと手帳を閉じた。

 直には、言わない。

 少なくとも、
 今は。

 海外転勤の話は、
 由里と律の結婚式が終わってから、
 会社には伝えればいい。

 直には、
 理由を並べた別れ話をする。

 嘘はつかない。
 でも、
 全部も話さない。

 それが、
 今の自分にできる、
 一番誠実なやり方だと思った。

 ひかりは、
 深く息を吸って、
 ゆっくり吐いた。

 ——これは、前に進む選択だ。

 誰かを恨まないために。
 自分を壊さないために。

 そして、

 直の幸せを、
 ちゃんと願える自分でいるために。
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