祝福のあとで
直side ②
扉が閉まってからも、
 直はしばらく、その場に立っていた。

 グラスを片づけるでもなく、
 照明を落とすでもなく。

 ただ、
 ひかりが座っていた場所を、
 見ていた。

 ——ちゃんと、好きだった。

 口に出したのは、
 たぶん、
 初めてだった。

 *

ひかりと出会ったのは、
 予定外の夜だった。

 雨でもなく、
 特別なイベントがあるわけでもない。

 ただ、
 店が静かだった日。

 扉が開いて、
 一人の女性が入ってきた。

 カウンターの端。
 軽めの一杯。

 それだけ。

 よくある客のはずだった。

 でも、
 直はなぜか覚えている。

 グラスを置く音が静かだったこと。
 店内を必要以上に見回さなかったこと。

 飲み終わったあと、
 「ごちそうさまでした」と言って、
 すっと席を立った。

 名前も、
 職業も、
 聞かなかった。

 それで終わりだと思っていた。

 *

 一ヶ月後。

 同じ時間帯。
 同じ席。

 扉が開いた瞬間、
 直は手を止めた。

 ——あ。

 理由は説明できない。

 ただ、
 前に来た人だと分かった。

 ひかりは、
 少し驚いた顔で言った。

「……覚えてます?」

 直は、
 一拍だけ置いてから答えた。

「はい」

 それだけ。

 それなのに、
 ひかりは少し笑った。

 それが、
 最初の会話だった。

 *

それから、
 時々来るようになった。

 話すこともあれば、
 ほとんど話さない日もある。

 でも、
 来なくなることはなかった。

 ある日、
 ひかりが言った。

「実は、仕事でお願いしたいことがあって」

 その言葉を聞いたとき、
 直は少しだけ驚いた。

 バーの客が、
 仕事の依頼をしてくることは、
 珍しくない。

 でも、
 ひかりの場合は、
 違う気がした。

 説明は簡潔だった。
 必要なことだけ。

 “ちゃんと仕事として頼んでいる”
 その姿勢が、
 直には分かった。

 だから、
 断る理由がなかった。

 
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