祝福のあとで
第28章 祝福のあとに
朝の空気が、
少しだけ乾いていた。

窓を開けると、
夜の熱が抜けきった風が入ってくる。

夏は、もう終わった。

はっきりとした境目はないのに、
身体の方が先に分かっている。

ひかりは、
ベッドの端に腰を下ろしたまま、
しばらく動かなかった。

枕元に置いたスマートフォンには、
触れなくても、
何が入っているか分かっている。

——海外転勤の件。

昨夜も、
画面を開いては閉じて、
結局、送らなかった。

返事は、
今日でいいと言われている。

期限としては、
十分すぎるほど。

それなのに、
決断だけが、
まだ、言葉にならない。

ひかりは、
小さく息を吐いて立ち上がる。

シャワーを浴びて、
髪を乾かして、
支度を整える。

今日は、
由里と律の結婚式。

夏の終わりに選ばれた日で、
これからを始める二人のための朝。

その場に立つことは、
仕事でもあり、
それ以上でもある。

鏡に映る自分を見て、
ひかりは一瞬だけ、
視線を逸らした。

二ヶ月前と、
顔は変わっていない。

でも、
立っている季節が違う。

——あの日。

直のバーを出た夜。

自分で選んだはずなのに、
心だけが、
少し遅れてついてきている。

それでも、
後悔はしていない。

少なくとも、
そう思ってきた。

スマートフォンが震える。

通知ではない。
ただ、時間が進んだだけ。

ひかりは、
画面を開き、
未送信のメールを一度だけ確認した。

件名は短い。

「海外赴任の件について」

本文も、
もう整っている。

送信ボタンだけが、
夏の名残みたいに、
まだ、熱を持って見えた。

この式が終わったら。

それまでは、
まだ、ここにいていい。

そう思って、
ひかりは画面を閉じた。

バッグを持ち、
玄関を出る。

ドアを閉めた瞬間、
胸の奥が、
すっと静かになる。

今日は、
誰かの人生が、
はっきり前に進む日。

だからこそ、
自分の答えは、
もう少しだけ、
あとでいい。

ひかりは、
夏の終わりの空気の中へ、
ゆっくりと歩き出した。
< 138 / 154 >

この作品をシェア

pagetop