祝福のあとで
直side
 カウンターの内側に立ちながら、
 直は、グラスを磨く手に意識を戻していた。

 目の前にいるのは、
 もう、何度も見送ってきた背中。

 仕事帰りの夜。
 少し疲れた顔。
 それでも、ここに来るときの歩き方だけは、いつも同じだった。

 ——無理をしていない。

 それが、最初に気づいたことだった。

 初めて来た夜も。
 二度目に来たときも。
 間が空いて、久しぶりに扉を開けた夜も。

 彼女は、
 “誰かに会いに来た”というより、
 “自分を戻しに来た”みたいな顔をしていた。

 だから、聞かなかった。

 どうして来たのかも、
 何があったのかも。

 聞けば、答えてくれるだろうことは分かっていた。
 でも、それをするのは、違う気がした。

 ここは、
 何かを引き出す場所じゃない。

 ただ、置いていける場所であればいい。

 ——そう思っていた。

 それが、
 いつから変わったのかは、正直わからない。

 気づけば、
 扉が開く音に、自然と顔を上げるようになっていた。

 彼女が来るときだけ、
 グラスを置くタイミングを、ほんの少しだけ遅らせる。

 今日は軽めがいいか。
 今日は甘さを残すか。

 理由をつけるほどのことじゃない。
 ただ、そうしたかった。

 それだけだったはずなのに。

 仕事として、距離は守っていた。
 客と店主として、越えない線も分かっていた。

 それでも。

 彼女が来ない夜が続いたとき、
 直は、自分がカウンターの向こうを
 無意識に探していることに気づいた。

 ——いない。

 それだけの事実が、
 思ったより、静かに残った。
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