祝福のあとで
Bar Afterから、
少しだけ歩いたところに、
直の家はあった。

落ち着いた色の外壁。
派手さはないけれど、
手入れの行き届いた佇まい。

玄関脇には、
シンプルなインターホン。

ひかりは、
その前で一度だけ足を止めた。

——本当に、来てしまった。

直は、
何も言わずに鍵を開ける。

「どうぞ」

短い一言。

中に入ると、
静かな空気と、
ほのかに木の匂いがした。

照明は柔らかく、
生活感はあるのに、
雑然としていない。

「上着、そこにかけてください」

言われるままに従い、
靴を揃える。

直は、
キッチンの方を指さした。

「すぐ作りますから、
 座っててください」

「……はい」

ソファーに腰を下ろすと、
ひかりは背筋を伸ばしたまま動けなくなった。

落ち着かない。

足の置き場も、
手の位置も、
全部が気になる。

キッチンから聞こえる、
包丁の音と、
フライパンの小さな音。

それが逆に、
ひかりの意識をはっきりさせてしまう。

——恋人。

そう思っただけで、
胸の奥が少し忙しくなる。

直は、
手元を動かしながら、
ちらりとこちらを見る。

ひかりの様子を、
一瞬で察したみたいに。

「……そんなに、
 緊張しなくて大丈夫ですよ」

いつもの敬語。

でも、
次の言葉で、
少しだけ間が空いた。

「……あ」

直は、
小さく息を吐いてから言い直す。

「緊張しなくて、いいよ」

ひかりは、
思わず顔を上げた。

直は、
キッチンに立ったまま、
こちらを見ている。

表情は変わらない。
でも、声の温度が違う。

「ここ、
 ひかりが思ってるほど、
 特別な場所じゃないから」

“ひかり”。

名前を呼ばれて、
胸の奥が、きゅっと鳴った。

「……うん」

返事は、
それだけで精一杯だった。

直は、
それを確認するみたいに、
ほんの少しだけ口角を上げる。

「すぐできるから」

「テレビつけてもいいし、
 ぼーっとしてて」

そう言って、
また料理に戻る。

ひかりは、
ソファーに深く腰を沈めた。

さっきより、
呼吸が楽になっている。

敬語が外れただけなのに、
距離が、
ほんの少しだけ近くなった気がした。

この家で、
この人と過ごす時間が、
少しずつ、
日常に溶けていく予感がしていた。
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