お試し婚のはずが、いつの間にか溺愛されています!~二度も婚約破棄された外科医は受付事務員に愛を捧ぐ~
「……大丈夫か」
 城高山先生が、少し低い声で言う。
 私はすぐに答えられず、ただ頷いた。
 心臓が、まだ落ち着かない。

「突然、あんな話をされて……」
 彼は言いかけて、言葉を切る。
「悪かった。こんな急には、巻き込むつもりはなかったんだ」
 その声に、胸がきゅっとする。
「いえ……」
 首を横に振る。

「先生が、庇ってくれたから」
 それだけで、十分だった。
 立ち止まった私に、彼も足を止める。
 近すぎず、遠すぎない距離。

「さっき言ったこと、忘れていい」
 静かだけれど、はっきりとした口調だった。
「婚約の話も、父の期待も、全部だ。君が嫌なら、断っていい」
 私は思わず、彼を見る。

「それでも俺は、君を好きだって気持ちは変わらない」

 胸の奥が、熱くなる。
 院長室の中より、ここにいるほうが、ずっと息がしやすかった。

「このタイミングでそんなこと言うなんて、ずるいですね」
 思わず、そんな言葉がこぼれる。
「そんなこと言われたら……余計に考えてしまいます」
 彼は、少しだけ困ったように笑った。

「考えていい。急がなくていい」
 そして、ほんの一瞬、間を置いてから言う。
「でも、ほんの少しだけでもいいから、俺のことを思い出してくれたらそれでいい」
 その言葉が、胸に静かに落ちる。

 廊下の奥から、誰かの足音が近づいてくる。
 現実が、また戻ってくる気配。
 それでも私は、ここで一度、はっきりと頷いた。
 今はまだ、正式な婚約者になるかの答えは出せない。
 でも――
 この人と向き合うことから、目を逸らすつもりは、もうなかった。
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