お試し婚のはずが、いつの間にか溺愛されています!~二度も婚約破棄された外科医は受付事務員に愛を捧ぐ~
「……ひどいですね」
 涙を拭いながら、思わずそう言ってしまう。

「そんなこと言われたら……もっと好きになってしまいます」
 その視線は、逃げも誤魔化しもなく、私だけを見ていた。
 触れられない距離が、まだここにある。
 でもそれは、突き放すためじゃない。

――大切にされている、という距離だった。

 私は胸の奥で、小さく頷く。
 今はまだ答えられない。
 それでも、この人を好きになることからは、もう逃げられないと分かっていた。
 車は、私の住むマンションの前で静かに止まった。
エンジン音だけが、小さく残る。

「今日は、ありがとう」
 彼の声は、いつも通り落ち着いているのに、その一言だけで胸が少し締めつけられた。

「……こちらこそ」
 シートベルトを外しながら、時間がゆっくり流れている気がした。


「無理に答えを出さなくていい」
 さっきの続きのような言葉だった。
「考える時間も、不安になる時間も、全部ひっくるめてでいい。俺は待つから」
 私は小さく頷く。そのあと、ほんの一瞬の間。

「……また、連絡する」
 それは約束というより、当たり前のような言い方だった。だからこそ、胸の奥に静かに残る。
「おやすみなさい」
 ドアを開けると、夜の空気が頬に触れる。振り返ると、彼はまだこちらを見ていた。

 何か言いたくて、でも言えなくて、
 私は軽く頭を下げるだけで車を降りた。

 ドアが閉まる音。
 ゆっくりと発進する車を、私はしばらく見送る。

 不安は消えない。
 答えも、まだない。
 それでも、彼との関係がこれから先も続いていくのだと、月が静かに見守ってくれていた。
< 39 / 62 >

この作品をシェア

pagetop