お試し婚のはずが、いつの間にか溺愛されています!~二度も婚約破棄された外科医は受付事務員に愛を捧ぐ~
「もう逃げない」
 言葉にした瞬間、少しだけ背筋が伸びた。
 完璧な人にはなれない。
 釣り合う人間かどうかなんて、まだ分からない。

 それでも、選ばれたから立つんじゃない。立つと決めたから、ここにいる。
 そう思えた私は、ようやく一歩踏み出した気がした。

 その日は、何事もなく終わった。

 晴美さんに付き添われ、病院関係者と顔を合わせ、
 私は必要以上に口を開かず、必要なことだけを話して帰った。

 乗り切った……よね?

 ――異変に気づいたのは、翌日の昼前だった。
 社内メールを確認していた私は、【忠告】という慣れない件名に手を止めた。

 差出人は、社内の誰でもない、匿名のアドレス。
 嫌な予感を覚えながら、開く。

『あの人と、早く別れた方がいい』
『身の程をわきまえたら?』

 心臓が、どくんと鳴った。
 私と彼の関係を、知っている人間。
 最初は、それだけだった。
 短い文面。感情を煽るような言葉。
 気にしない、無視すればいい。
 そう思って、削除した。
 けれど、それで終わらなかった。

 翌日、また一通が届く。

『あなただって分かってるはず』
『釣り合わないって』
 胸の奥が、じわじわ冷えていく。

 そして三通目。
『二股してるくせに』
『もう一人は既婚者でしょう?』

 目を疑った。
 根も葉もない、完全な嘘。
 指先が、少し震えた。

 馬鹿らしい、誰が信じるの?
 そう思おうとして――思えなかった。
 何故ならば、その日の午後に社内が、ざわつき始めたから。

「ねえ……これ、見た?」
「さすがに、ひどくない?」
 ひそひそ声が、あちこちから聞こえる。
 嫌な予感が、確信に変わる。
 私は、自分のメールを開いた。
 そこには、見覚えのある文面があった。

 ただし――
 宛先が、私一人ではなかった。

 CC欄に、ずらりと並ぶ社内アドレス。

 部署、役職、関係なく。
 一斉送信。

『彼女は二股をかけている』
『もう一人の相手は既婚者』
『騙されているのは婚約者の方だ』

 視界が、ぐらりと揺れた。
 ありもしないことをばら撒かれた。
 頭の中が、真っ白になる。
 嘘だと分かっているのに、文字として並べられたそれは、やけに生々しかった。
 周囲の視線が、突き刺さる。

 直接何かを言われたわけじゃない。
 でも、分かる。
 見られて、疑われている。

 喉が、きゅっと締めつけられる。
 ――逃げない、と決めたはずなのに。

 ふと、城高山先生の顔が浮かんだ。
 このことが知られたら、嫌われるかもしれない。

 胸の奥が、ぎゅっと痛む。
 私は、ゆっくりと深呼吸した。

 逃げちゃ、駄目。
 震える手で、メールを保存する。
 削除は、しない。
 なかったことにも、しない。
 これは私が向き合う現実だ。
 背筋を伸ばし、私は席を立った。

 ――戦うためじゃない。
 ただ、真実を曲げないために。
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