お試し婚のはずが、いつの間にか溺愛されています!~二度も婚約破棄された外科医は受付事務員に愛を捧ぐ~
 それでも──
 彼が隣に立ち、私の手を離さないと決めてくれた事実だけは、何よりも心強かった。

 私はそっと息を吐き、彼の横顔を見る。
 この人となら、どんな困難があっても、前に進める。そう、初めて思えた。

 あの事件後、城高山家から謝罪を受けた。私はすぐに解決したので気にしないでほしいと伝えた。
 義姉の真希さんの姿を、院内で見かけなくなったのは、婚約の報告が済んでから間もなくのことだった。

 以前は、白衣姿で廊下を歩けば、自然と人の輪の中心にいた人だ。
 腕のいい医師で、院長の娘という立場もあり、誰もが一目置いていた。

 けれど、あの日を境に、彼女の名前は話題に上らなくなった。

 噂として耳にしたのは、短い一文だけだった。
 アメリカの大学病院に、行くらしい。
 詳しい理由を知る人は、ほとんどいなかった。説明もなかったし、送別会も開かれなかった。

 ただ、ある日を境に、彼女のロッカーは空になり、デスクの名札も外されていた。

 森さんに関しては、処分は厳重注意に留まった。
 けれど、それで何もかも元に戻るわけではなかった。
 他の同僚からの噂話だが、森さんは他人に対する嫉妬や妬みが酷い人だったらしい。ないものねだりも得意だったそうな……。

 以前のように、親友と呼べる距離感には、もう戻れない。
 言葉を交わしても、どこか一線が引かれているのがわかる。

 寂しさがないと言えば、嘘になる。
 同じ時間を共有してきた分、その喪失感は思っていた以上に大きかった。

 それでも、森さんが自分を憎んでいたのだと思うと、胸の奥が重くなる。

 あの距離が壊れた理由が、好意でも誤解でもなく、
 「憎しみ」だったかもしれないという事実が、ただやるせなかった。

 ……終わったんだ。

 そう思った瞬間、不思議と胸はざわつかなかった。
 怒りも、同情も、もう湧いてこない。ただ、静かな区切りだけが、そこにあった。

 城高山先生にそのことを尋ねたのは、その日の帰り道だった。

「真希さんがアメリカに行くって、本当?」
「ああ」
 彼は前を向いたまま、淡々と答える。

「向こうの大学病院から話が来てた。ここに残っても、もう居場所はないからって」
 その言葉に、私は何も返せなかった。
 彼女は医師として優秀だった。
 だからこそ、別の場所で、別の人生を選ぶことができたのだろう。
 私たちの前から、完全に離れるという選択を……。

 出発の日、彼女は病院に顔を出さなかった。
 院長である父とも、言葉を交わさなかったと聞く。
 まるで、最初から存在しなかった人のように、痕跡だけを残して。
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