お試し婚のはずが、いつの間にか溺愛されています!~二度も婚約破棄された外科医は受付事務員に愛を捧ぐ~
 あれは逃避ではなく、終わりだったのだと。
 真希さんの彼への歪んだ執着は、海を越えて、もう戻らない場所へ行った。

 ジャケットのポケットに忍ばせた婚約指輪に、指先が触れる。
 私はそれを確かめるように、ぎゅっと握りしめた。

 これから先、彼女の名前を聞くことは、きっとない。
 それでいい。

 私たちは、前に進む。
 義姉に最後に会ったのは、出発の前日だった。

 人気のなくなった医局の前で、偶然すれ違った。
 白衣ではなく、私服姿の彼女は、驚くほどあっさりして見えた。

「ああ……貴方か」
 敵意も棘もない声だった。
 そのことに、私のほうが少し戸惑ってしまう。
「明日、アメリカに発つの」
 報告するように言ってから、彼女は小さく息を吐いた。
「これだけは、言っておくわね」
 私を見ているようで、どこか遠くを見ている視線。
 次の言葉は、拍子抜けするほど素直だった。
「弟のこと、好きだったの」
 先日知った事実だけれど、一瞬、言葉を失う。
 けれど、彼女はそれ以上の感情を乗せなかった。
「……ずっと。だから、あなたが憎かった」
 そう言って、肩をすくめる。

「でも、もう終わり。
 向こうで、ちゃんとした人、探すわ」

 まるで天気の話でもするような口調だった。

「彼の人生に、私が割り込む余地はないもの」
 最後に、彼女はほんの一瞬だけ、私を真っ直ぐ見た。
「壱知を幸せにしなさい。あの人を選んだなら」
 それだけ言うと、彼女は踵を返した。
 振り返ることもなく、ヒールの音だけが、静かな廊下に遠ざかっていく。
 私は、その背中を見送った。
 胸の奥に残ったのは、勝利感でも、哀れみでもない。
 ただ、ひとつの物語が終わったという、静かな実感だった。
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