御曹司の契約妻が本物の妻として愛されるまで
 我に返ったのか、彼がいそいそとジャケットを脱ぐ。手渡された瞬間に、ふわりといい香りがした。
 シワにならないよう、なるべく丁寧にジャケットを折りたたみ、袖口のボタンを切る。
 誰かに見られながらの裁縫は少し緊張したけれど、すぐにボタンを付け直した。

「随分と手際がいいですね」
「そんなことないですよ。誰でもできることですし……。まぁ、よく服のほつれを直していたので、慣れているかもしれません」

 ボタンを付け直したばかりのジャケットを彼が羽織る。
 なるべく目立たないようにスーツに合う色の糸を選んだけれど、よくよく見るとそこだけ浮いて見えた。

「糸の色、気になるようでしたら遠慮なく外して付け替えてくださいね」
「そんなことはしません。これがいいです」

 紺色のボタンに沈む黒い糸を見て、彼が言う。

 これがお礼になるとは思わないけれど、少しでもカクテルを奢ってくれたお礼とハンカチを貸してくれたお礼として返せた気がして気持ちが軽くなった。

「蓮には、こういうことしてくれる相手がいないからなぁ」
「……余計なことを言うな」
「お声は掛かるんだけど、ぜーんぶ断りやがって」

 いつの間にか店主が会話に加わってくる。
 九条さんはジト目で店主を睨むと、ふんと鼻を鳴らして水を飲み干した。

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