御曹司の契約妻が本物の妻として愛されるまで
「……っ」

 ツンと鼻の奥が滲んで、瞳に涙の膜が張る。
 何度か深呼吸をして気持ちを静めると、コーヒーの粉末が入っている缶に手を伸ばした。

「あっ……」

 そのとき左手に収まる指輪が視界に入って、少しだけ元気を取り戻す。

 彼は結婚の印として、飼い主が飼い犬にリードをつける程度の感覚でこの指輪を贈ってきたのかもしれないれど、私にとっては御守りのように思えた。

「……頑張らないと」

 まだまだ仕事は残っているし、彼と結婚したからといって劇的に生活が変わるわけでもない。
 これからも私はここで働いていかなければならないのだ。

 いちいち落ち込んでもいられないと気合を入れ直して、カップに粉末を落とし、お湯を注ぐ。
 淹れたてのコーヒーを持ってオフィスに戻ると、さっき私のことを噂していた人たちも仕事に戻っていた。
 私も何食わぬ顔で戻り、残りの仕事を捌いていく。

 そうしてすべての仕事を終えた私は、久しぶりに定時を少し過ぎたあたりで上がることにした。

「お疲れ様です。お先に失礼いたします」
「えっ、もう出るの?」

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