策士な財閥ホテル王は政略妻との初恋を実らせる
 翌日、駅前のビジネスホテルに部屋が取れた。

 十五時のチェックイン後、気分転換に外に出た。

 このところつわりのせいかあまり食欲がなかったのだけど、あのピスタチオパンなら食べられそうな気がした。

 後藤さんとの一件からなんとなく足が遠のいていたベーカリーは、駅前のビジネスホテルから地理的に徒歩圏内。

 懐かしい味を求めて、ビルが建ち並ぶビジネス街を歩いた。

 福本建設の本社前を通り、陰鬱な気分になった。

 いつまでもホテルで暮らすわけにもいかないし、きちんと父にも説明しなくては。

 父は理解してくれるだろうか。

 こんなとき、もし母が生きていたら、と考えてしまう。

 相談に乗ってもらいたかったな……。

 絶対に叶わない願いを抱いていると、心細くなってくる。

 弱い気持ちを振り切るかのように足早に、通りの角のベーカリーに向かって歩いているときだった。

「あら、美雨さんじゃない?」

 突然話しかけられ、ピタリと足を止める。呼吸も一瞬静止した。

 声がしたほうに目をやると、街の雑踏の中に、一際美しく輝いた容貌の女性が立っている。

 本庄マリカさんだ。

「ああ、やっぱり! こんにちは、お久しぶりね」

 私のそばに駆け寄ると、マリカさんは溌剌とした様子で笑った。

 嘘でしょ?どうしてこんなところで……。

 信じられない偶然に、声帯がギュッと縮んでまったく機能しない。

「どこかへ行かれるの? 雪成は一緒じゃないの?」

 人懐こい笑顔で尋ねられて、私はようやく息を吸い、軽く咳き込んだ。

「はい、本当にお久しぶりです。私はこれからひとりでベーカリーへ行くところです」

 急ごしらえの引きつった笑顔で伝えると、マリカさんの表情が綻ぶ。

「ベーカリー? 私もご一緒してもいいかしら? 美雨さんともっとお話ししてみたいと思っていたの!」

 前のめりな勢いに気圧される。

「……は、はい。もちろんです」

 ぽかんとしたのち、時間差で私は何度もうなずいた。

 目的のベーカリーまではあと数十歩。

 断りきれなくて、二階のカフェテリアでお茶をすることになってしまった。

 窓際の席に向かい合って座りコーヒーを一口飲むも、お互いに警戒しているからか話の接ぎ穂がない。
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