策士な財閥ホテル王は政略妻との初恋を実らせる
 フッと頬を弛緩させて息を吐くと、マリカさんは腰を浮かせて一向に微動だにしない私の手を取る。

 そして、両手にハンカチを手に握らせた。

「……へ?」

 激しく素っ頓狂な声が出る。

 恋愛感情はない? 私の誤解……?

「不安にさせてしまってごめんなさいね。でもね、雪成はあなたにベタ惚れよ」

 ウインクみたいに片目を細めるマリカさんのキュートな仕草に、心臓がドクンと高鳴った。

「あなたのことを、誰にも見せたくないって。自分がこんなに心の狭い男だと思ってもみなかったって、頭を抱えてたわ」

 どこかで聞いた台詞に、私は目を見開く。

『ああ、すごくきれいだよ。誰にも見せたくない』

 ハワイ島でのパーティーのとき、控え室から聞こえたあの発言は、私のことだったの……?

「私ね、いま仕事でこっちに来てるんだけど、なにかあったら時間作るからいつでも連絡してね」

 終始放心している私に構わずに、マリカさんは連絡先が記された名刺を私の目の前に差し出した。

 さっきお借りしたハンカチで涙を拭きながら受け取る。

「さ、お腹が空いたから、パンを食べましょう。すっごく美味しそう!」

 マリカさんの元気な声に、徐々に胸の中を覆う霧が晴れてゆく。

「は、はい……」

 まだ戸惑いはあるけれど、安堵すると私もお腹が空いてきた。

 マリカさんは近寄りがたいほど美しい見た目に相反し、とても気さくで話しやすい方だった。

 パンを食べながらパリでの仕事の話や、雪成さんとの子どもの頃の話など、いろいろ教えてくれた。

 私が誤解したふたりの会話の詳細については、雪成さんから直接聞いたほうがいいとアドバイスされ、不安になる必要はないと念を押された。

 着工パーティーで招待客たちがふたりの仲を“叶わぬ恋”だと話していたことについても。

「そんなのただの噂話。ご婦人たちはゴシップが好きなのよ、勝手に話を作られてほんと迷惑よね」

 一蹴したマリカさんは肩をすくめた。

 それから、私と雪成さんが出会った水沢温泉郷の話も興味深く聞いてくれて、短時間のうちに心を通わせ、親しくなれた気がする。

 あのとき控え室で、ふたりの会話をつぶさに聞いていたわけではないのに、一方的に誤解して思い込み、悩んでしまった。

 私の話に共感し、親身になってくれるこんなに素敵な人を恋敵として警戒するなんて……。

 いくら妊娠初期とはいえナーバスになりすぎていたのかもしれない。

 また会う約束をしてからマリカさんと別れ、ひとまず駅前のビジネスに向かう。

 ホテルを出たときはまだ明るかったが、今は夕暮れから宵闇に変化しそうな空の色だ。

 明日になれば、雪成さんは帰国するだろう。

 雪成さんが帰宅したら、マリカさんの件も妊娠のこともすべて打ち明けて、誤解していたと謝罪しなければ。

 やっぱり今夜は、宿泊しないで帰ろう……。

 いち早くマンションへ帰宅したくなって、スーツケースを引き、部屋を出ようとしたときだった。

 トントントン! と弾くような速いリズムでドアがノックされる。
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