優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください
一ノ瀬くんのマンションは、彼の性格を体現したような無機質で清潔感のある空間だった。ミニマリストという程ではないが、無駄なものが少ない。それでいて不便さを感じさせない部屋だった。
「適当に座っててください。今、風呂沸してきます」
彼が色々動いてくれている間、私はリビングの壁に飾られた1枚のポスターに目を留めた。それは、3年前の自社製品の販促ポスターだった。でも、たしかこれは没デザインになったはず。
「それ、覚えてますか?僕が配属されて最初に関わったキャンペーンです」
いつの間にか背後に立っていた一ノ瀬くんが、温かいマグカップを差し出してきた。中は温かいお茶で、こくりと飲めば体の芯から温まる。
「…うん、覚えてるよ」
「先輩、当時も毎日遅くまで残って市場調査の資料を山のように作っていましたよね。それを見て『この人、いつか壊れるんじゃないか』って当時から本気で心配したんですよ」
彼は、私の隣に少しだけ距離を空けて座った。その距離は彼なりの配慮だった。
「そんなにも忙しいのに、素っ気ない態度しか取れなかった僕にも積極的に関わってくれた先輩のことを、本気で尊敬していたんです。だから、少しでも役に立ちたくて、沢山のスキルを身に付けたはずなのに、」
そこで言葉を切った一ノ瀬君は、迷子の子どものような表情で私を見た。
「……先輩は、意図的に僕から離れていきましたよね」
その言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。
衝撃だった。意図的に離れたことがバレていたなんて、当時は微塵も気づいていなかった。いや、それもそうだろう。自分から見ないようにしたのだから、気づけるはずもない。
「……でも、もう手助けは必要じゃなかったじゃない。逆にアドバイスしてくれたぐらいだったし…」
「あれは少しでも早く先輩を帰らせてあげたかっただけです。……まあ、言い方が可愛くなかったのは認めますけど」
彼はそう言うと、ようやく自分のマグカップを口に運んだ。
1年前、彼が特設部署に異動する時に私が感じてしまった安堵。それは、彼にも伝わっていたのかもしれない。
離れられて良かったと思った私と、追いつきたくて必死に走った彼。
きっと、気づかない内に何度も彼の思いを踏みにじっていたのだろう。
気づかないだけ、質が悪い。意図的な方がどれだけ救いがあったことか。
「先輩」
ふいに呼ばれて、視線を上げる。そこには再会した夜と同じ熱を帯びた瞳があった。けれど、今はそこに微かな震えが混ざっている。
「僕、もう新人じゃないって言いましたよね」
彼の大きな手が、ソファーの上に置かれた私の手とゆっくりと重なる。避ける時間は十分にあった。けれど、私は動かなかった。…いや、正確には動けなかった。
「いい加減、独りで頑張るのやめませんか?」
窓の外では、雨の音が少しだけ強くなっていた。
一ノ瀬君と再会したことにより、私の平穏な日常は確かに崩れた。でも、数少ない理解者であるこの後輩と再会するために必要なプロセスだったとするならば、それは良い変化だったのかもしれない。
「…分かったわよ。でも、仕事に関しては今まで通り妥協しないからね」
「ふっ、知ってますよ。そういう先輩に憧れているんですから」
彼は満足げに目を細めると、重ねた手に少しだけ力を込めた。
長い夜は、まだ始まったばかり。
「適当に座っててください。今、風呂沸してきます」
彼が色々動いてくれている間、私はリビングの壁に飾られた1枚のポスターに目を留めた。それは、3年前の自社製品の販促ポスターだった。でも、たしかこれは没デザインになったはず。
「それ、覚えてますか?僕が配属されて最初に関わったキャンペーンです」
いつの間にか背後に立っていた一ノ瀬くんが、温かいマグカップを差し出してきた。中は温かいお茶で、こくりと飲めば体の芯から温まる。
「…うん、覚えてるよ」
「先輩、当時も毎日遅くまで残って市場調査の資料を山のように作っていましたよね。それを見て『この人、いつか壊れるんじゃないか』って当時から本気で心配したんですよ」
彼は、私の隣に少しだけ距離を空けて座った。その距離は彼なりの配慮だった。
「そんなにも忙しいのに、素っ気ない態度しか取れなかった僕にも積極的に関わってくれた先輩のことを、本気で尊敬していたんです。だから、少しでも役に立ちたくて、沢山のスキルを身に付けたはずなのに、」
そこで言葉を切った一ノ瀬君は、迷子の子どものような表情で私を見た。
「……先輩は、意図的に僕から離れていきましたよね」
その言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。
衝撃だった。意図的に離れたことがバレていたなんて、当時は微塵も気づいていなかった。いや、それもそうだろう。自分から見ないようにしたのだから、気づけるはずもない。
「……でも、もう手助けは必要じゃなかったじゃない。逆にアドバイスしてくれたぐらいだったし…」
「あれは少しでも早く先輩を帰らせてあげたかっただけです。……まあ、言い方が可愛くなかったのは認めますけど」
彼はそう言うと、ようやく自分のマグカップを口に運んだ。
1年前、彼が特設部署に異動する時に私が感じてしまった安堵。それは、彼にも伝わっていたのかもしれない。
離れられて良かったと思った私と、追いつきたくて必死に走った彼。
きっと、気づかない内に何度も彼の思いを踏みにじっていたのだろう。
気づかないだけ、質が悪い。意図的な方がどれだけ救いがあったことか。
「先輩」
ふいに呼ばれて、視線を上げる。そこには再会した夜と同じ熱を帯びた瞳があった。けれど、今はそこに微かな震えが混ざっている。
「僕、もう新人じゃないって言いましたよね」
彼の大きな手が、ソファーの上に置かれた私の手とゆっくりと重なる。避ける時間は十分にあった。けれど、私は動かなかった。…いや、正確には動けなかった。
「いい加減、独りで頑張るのやめませんか?」
窓の外では、雨の音が少しだけ強くなっていた。
一ノ瀬君と再会したことにより、私の平穏な日常は確かに崩れた。でも、数少ない理解者であるこの後輩と再会するために必要なプロセスだったとするならば、それは良い変化だったのかもしれない。
「…分かったわよ。でも、仕事に関しては今まで通り妥協しないからね」
「ふっ、知ってますよ。そういう先輩に憧れているんですから」
彼は満足げに目を細めると、重ねた手に少しだけ力を込めた。
長い夜は、まだ始まったばかり。