優秀な後輩で私も嬉しく思うので、どうぞ『先輩離れ』してください
 ガチャン、とシンクの縁に彼の手が置かれ、私は彼の腕と壁の間に閉じ込められてしまう。

「……何」
「逃げないでください。話はまだ終わっていません」

 彼はゆっくりと体を私の方へ傾けてきた。敬語のままなのに、ピリつく低い声と圧迫感。怒っていることは明らかだった。

(何で、私なんかに興味を持つのだろう)

 その疑問は徐々に膨れ上がり、次第に怒りへと変わっていった。意味が分からない。一ノ瀬君が言葉足らずなのは前から知っているが、私だってこんなに急に色々踏み込まれて笑えるような人ではない。

「先輩の行動はいつも見ていて不快なんです」
「は…?」
「自分の身体を壊すような徹夜や無茶。誰もそこまでのものは求めていません」

 頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。何を言っているのだろう。
 もしかして、言外に私の努力が、無駄だとでも…?

「……喧嘩売ってるの?いい加減にしなさいよ。私みたいな凡人は、誰にも期待していないって言いたいわけ?」

 私の言葉に、彼がピクリと反応した気配がした。すっかり顔を下げてしまった私には、今彼がどんな表情をしているのか分からない。
 しかしほんの少しの間の後、彼が弱く小さな言葉を零した。

「…そうじゃ、ないです。ただ、…先輩に無理をして欲しくないだけなんです」

 予想外の言葉に顔を上げると、泣きそうな顔の一ノ瀬君と目が合った。悔しそうに歪められたその表情は、教育係をしている間ですら見たことのないもので、思わず息を呑んでしまった。
 それでも、彼の目は真剣そのもの。そこに侮辱の色は混ざっていなかった。頭に登った血が降りてきて、卑屈すぎたと反省する。

「…無理はしてない、わよ」

 私の苦し紛れの言葉に、彼は呆れたように溜息をついた。そして、

「…ああ…分かりました。先輩が自己管理できないなら、僕が管理すればいいんですね。そうだ、何でこんなことに気づかなかったのだろう」

 急に変なことを言い出したかと思えば、納得したようにうんうんと頷いている。何やら不穏な雰囲気がするし、出てくる言葉をどう解釈しても良い風に捉えられない。

「は、え、どういうこと?」
「まあ、それはこれからのお楽しみということで」

 彼はそう言うと、満足げに微笑んで離れた。ようやく解放されたものの、敬語は崩さないくせに眼差しだけは相変わらず獲物を追い詰めるかのように鋭い。そんな視線に射抜かれると同時に、喉が引くつくのを感じた。

「では、また次の会議で」
「ちょ、」

 一ノ瀬君はコップを片付けると、一言残して給湯室を後にした。
 残された私は、意味が理解できない中で現実逃避をするしかなかった。
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