アンコールはリビングで
4. 眠れる森の鬼コーチ

マンションのエントランスを抜け、自宅の玄関ドアを開ける。

「……ただいま」

小声で言うが、返事はない。
ただ、玄関には見慣れた黒のパンプスが揃えて置いてあった。

(……お、帰ってるな)

靴の向きからして、相当急いで帰ってきたのが分かる。

リビングへ向かうと、部屋は薄暗く、静まり返っていた。
テレビもついていない。
静寂の中、ソファの方から規則正しい寝息だけが聞こえてくる。

「……あ」

湊は足を止めた。
ソファの上で、凪が力尽きていた。

部屋着に着替え、夕飯を作るつもりだったのかエプロンをつけたまま、ブランケットもかけずに丸まっている。

「……ったく。俺にはあれだけ口うるさく言っといて、自分はこれかよ」

一瞬呆れたように呟くが、その表情はすぐに崩れた。

仕事で疲れているはずなのに、彼女の寝顔を見た瞬間、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。

愛おしい。ただ、その一言に尽きる。

湊は音を立てないようにソファに近づき、片膝をついて彼女の顔を覗き込んだ。
無防備な寝顔。目の下にはうっすらとクマがある。
きっと今日も、あの戦場で理不尽な仕事と戦ってきたのだろう。

「……毎日頑張りすぎだ、バカ」

彼はそっと前髪をかき上げ、その額に唇を寄せた。

「……んぅ……」

「……愛してるよ」

耳元で囁くように落とされたキスと言葉。
凪は気づかずに、幸せそうに寝返りを打った。

湊は立ち上がり、寝室から毛布を持ってくると、彼女の体に優しくかけた。
起こすのは可哀想だ。

「……さてと」

彼は腕まくりをした。

お腹は空いているだろう。
何か消化に良くて、彼女が喜びそうなものを作って、少し寝かせてやろう。

明日は高尾山デートの撮影だ。体力を温存しなければならないが、今の自分には、彼女のために料理をするこの時間こそが、一番の休息だった。

国民的スター・早瀬湊は、ただの「湊」の顔で優しく微笑むと、静かにキッチンへと向かった。
< 32 / 42 >

この作品をシェア

pagetop