アンコールはリビングで
3. 忘却の彼方のバレンタイン

「えっ……」

深紅の花弁。芳醇な香り。

あまりに現実離れした光景に、私は呆然と立ち尽くした。
完璧な姿の早瀬湊が、バラの花束を抱えて私を見つめている。

ドラマ? これはドラマの撮影なの? 私はエキストラ?

「おい! おーい、凪。……凪?」

「はっ」

目の前で彼の手が振られ、私は現実に引き戻された。

「や、やば。湊のスターオーラにやられてた……私としたことが、思考停止してた……」

「あーもう、まだ分かんねぇのかよ!
バレンタインだよ! バレンタイン!」

「……あっ!」

バレンタイン。

その単語を聞いた瞬間、通勤電車の風景がフラッシュバックした。
駅のポスター、デパートの催事場、街中に溢れていたハートの装飾。

そして何より、湊自身が広告塔を務めるチョコレートの巨大看板。

「……あー、そうだったかも……?
ほんとね、忙しさは心の余裕を奪うというか……世間の煌びやかなものをシャットアウトさせるのよ……」

「言い訳すんな。……ほら、受け取れ」

彼はぶっきらぼうに言うと、花束を私の胸に押し付けた。
ずしりとした重み。そして、鼻をくすぐる甘く高貴な香り。

「……ありがと、湊」

私は花束に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。

仕事に追われ、自分のことすら後回しにしていた数週間。
この香りが、乾いた心にじわりと染み渡っていくのが分かる。

「すごい嬉しい。……この所、仕事頑張ってたご褒美って感じで、めっちゃ心に沁みる……」

私が顔を上げ、素直な気持ちを伝えると、彼はやっと満足そうに口角を上げた。
いつもの悪戯っぽい、でも優しい笑顔だ。

「……沁みたか?」

「うん、すごく」

「そりゃよかった」
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