アンコールはリビングで
4. 眠れる森の鬼コーチ

マンションのエントランスを抜け、自宅の玄関ドアを開ける。

早朝からの長丁場だったドラマ撮影を終え、体は鉛のように重い。
けれど、このドアの向こうに「帰る場所」があると思うだけで、足取りは自然と軽くなる。

「……ただいま」

小声で言うが、返事はない。
ただ、玄関には見慣れた黒のパンプスが、少し乱れた角度で揃えて置いてあった。

(……お、帰ってるな)

靴の向きからして、相当急いで帰ってきたのが分かる。

俺が「思ったより早めに終わった」と連絡したから、慌てて戻ってきてくれたのだろうか。
その健気さを想像しただけで、口元が勝手に緩んでしまう。

リビングへ向かうと、部屋は薄暗く、静まり返っていた。
テレビもついていない。

静寂の中、ソファの方から規則正しい寝息だけが聞こえてくる。

「……あ」

俺は足を止めた。
ソファの上で、凪が力尽きていた。

仕事着から部屋着に着替え、さらにエプロンをつけたまま、ブランケットもかけずに小さく丸まっている。

キッチンには、使いかけの野菜とボウル。
疲れているはずなのに、俺のために何か作ろうとしてくれていた痕跡。

「……ったく。俺にはあれだけ『体調管理しろ』って口うるさく言っといて、自分はこれかよ」

一瞬呆れたように呟くが、湧き上がってくるのは呆れよりも遥かに巨大な愛しさだ。

エプロン姿で寝落ちなんて、防犯意識が低すぎる。

(そんな無防備な顔晒してたら……飢えた狼に喰われても、文句は言えねぇぞ)

そう毒づこうとして、ふと思い直す。

……いや、この姿を見られるのは、世界で俺だけだ。
その特権に、優越感が胸を満たす。

愛おしい。ただ、その一言に尽きる。

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