蝶よ花よ、あこがれに恋して
「おかえりなさい」
どこから湧き出たか分からない、元から私に存在していたような安心感。思わず、用意していたものとは違う言葉が零れた。
「おかえり?」
桜庭さんは困惑したように眉根を下げて微笑むので、私は焦る。
「あ、ごめんなさい。でも、なんとなく、お疲れ様です、よりもおかえりなさいって感じがします」
帰宅したわけでもないのに、何を馬鹿なことを、と思われただろうか。しかし桜庭さんは、ゆるく微笑む。
「そう。じゃあ、ただいま」
ただいま。
意味もなく泣きそうになった。桜庭さんが帰ってきた感覚。何千、何万という世間の目から。期待と罵声と重圧と興奮の入り交じるあの戦いから。
サッカー選手という仕事を私は正直舐めていた。飄々とした人だから分かりにくいけれど、彼はあのプレッシャーの中生きていくことを選んだ人なのだ。
「(すごいなあ)」
私はこの先、何度だって彼を尊敬するのだろう。
そんな未来を今この瞬間感じ取り、涙を隠した。
「桜庭さん、髪、濡れてませんか?」
「ああ、シャワー浴びたから」
「風邪、ひいちゃいますよ……!」
慌ててバッグを漁る。残念ながら桜庭さんを象徴するあのタオルマフラーしかない。つま先でぴんと立ち、手を伸ばしそれを桜庭さんの頭に被せた。それに躊躇いはなかった。
軽く彼の髪を拭っていれば、ふと私の手首を彼の手が掴む。視線をおろす。目が合う。彼の力に促されて手をおろす。手は掴まれたまま。
「いいな」
「なにが、ですか」
「試合の後、心鈴ちゃんがおかえりって言ってくれんの」