優しい雨が降る夜は
ピアノリサイタル
「館長、おはようございます」

翌日、美月は勤務先のコミュニティセンターに出勤すると、制服の紺のスーツに着替えてからカウンターに向かった。

「おはよう、風間(かざま)さん。今日は遅番だよね?」
「はい、そうです。大ホールで19時からピアノのリサイタルが催されるので、それが終わるまでは」
「そうか。私は17時上がりなんだけど、大丈夫かな?」
「はい、お任せください」
「頼むよ。風間さんなら安心だ」

気のいいおじさんといった雰囲気の50代半ばの館長は、美月に笑いかけてからバックオフィスに戻っていった。

「美月ちゃん、おはよう」

早番のパートの主婦、桑原(くわはら)が、にこやかに顔を上げる。

「おはようございます、桑原さん。休憩行ってきてください」
「ありがとう。特に変わったことはないわよ。いつもと同じ」
「分かりました。ごゆっくり」

桑原と交代してカウンターの前に座った美月は、今日の利用状況を端末で確認する。

(えーっと、体育室は午後から卓球サークルの『ピンポンパン』ね。多目的室は吹奏楽団の『ブラブラバンバン』みんなどうしてこういうネーミングなのかしら? 和室は……あっ、噂をすれば『本読み会』だわ)

美月が勤務しているのは、区の公共施設のコミュニティセンター。

主に地域の人達の為の施設で、座席数500席の大ホールから、卓球やバドミントン、バレーボールなどにも対応出来る体育室、防音設備の整った多目的室、茶道や華道に最適な和室などがある。

他にもカラオケルームや勉強室、図書コーナーやプレイルームなどもあり、赤ちゃんからおじいちゃんおばあちゃんまで、ニーズに合った場所でそれぞれの時間を楽しんでもらう、いわば憩いの場でもあった。

サークル活動は曜日と時間が決まっていることが多く、美月もほとんどの利用者とは顔なじみだ。

「美月ちゃーん、こんにちは」

しばらくすると、『本読み会』のメンバーの一人がやって来た。

「こんにちは。もしかして、タキさんもご一緒ですか?」
「そうなの。悪いんだけど、お迎えお願い出来る?」
「かしこまりました。すぐに行きますね」

美月はバックオフィスの館長に声をかけてから、階段をタタッと駆け下りる。
90歳を過ぎた近所に住むおばあちゃんが、車椅子に座って待っていた。

「タキさん、お待たせ」
「いつも悪いねえ、美月ちゃん」
「いいえ。行きましょうか」

美月は車椅子の後ろに回るとハンドルを握り、ストッパーを外す。

「では動きますよー」
「はいー」

本読み会のメンバーが、ここに来る前にタキさんの自宅に立ち寄って、車いすを押して来るのがいつもの流れだった。

館内はバリアフリーになっているのだが、エレベーターの前のスロープだけは、車椅子を押すには力がいる。

補助する人も高齢者では危ないからと、美月はいつも「私が代わるので声かけてくださいね」と伝えていた。

エレベーターに乗ると、美月は壁の鏡越しにタキさんに話しかける。

「タキさん、今日はなんの本を読むの?」
「今日はね、古今和歌集よ」
「それは素敵!」

美月はうっとりと宙に目をやって口ずさむ。

『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』

するとタキさんがふふっと笑う。

「美月ちゃん、その歌はあなたの心境にはまだ早いわ。美月ちゃんは、そうねえ……。『夕月夜 さすや岡部の 松の葉の いつともわかぬ 恋もするかな』ってところかしら?」
「それって、いつ始まったのかも分からない恋をしているって意味でしょう?」
「そうよ。美月ちゃんにぴったりじゃない?」

美月は笑って否定する。

「残念ながら、私はその歌の心境ではないです」
「あら、気づいていないだけで、もう恋の中にいるかもしれないわよ?」
「ふふっ、そうだといいですけど。はい、着きましたよ」

エレベーターを降りると、廊下の突き当りの和室に入る。
畳の手前で車椅子を止めて、ストッパーをかけた。

「ありがとね、美月ちゃん」
「いいえ、ごゆっくり楽しんでくださいね」

明るく手を振ってから、美月は和室をあとにした。
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