優しい雨が降る夜は
「それじゃあ、あとはよろしくね」

休憩から戻ると、館長が帰り支度を始めた。

「はい、お任せください。お疲れ様でした」
「お疲れ様」

館長を見送ると、入れ違いに大ホールを予約したピアニストがやって来た。

「こんにちは、友利(ともり)です。今日はよろしくお願いします」
「こんにちは、風間と申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします。早速楽屋にご案内しますね」

若手のピアニストの友利 健二(けんじ)は、海外の有名なコンクールで賞を取ったばかり。

凱旋公演として、今はあちこちの地域でリサイタルを開いているらしい。

甘いルックスと爽やかな笑顔で、追っかけの女性達がこぞって前売り券を購入し、早々に完売していた。

美月は大ホールの通路脇の楽屋まで来ると、ドアを開けて「どうぞ」と友利を促す。

「空調はつけておきましたが、暑かったり寒かったりしたら、ご自由に設定してくださいね。ステージには、打ち合わせ通りにピアノを準備してあります。すぐにリハーサルされますか?」
「そうですね、弾いてみたいです」
「かしこまりました。ご案内します」

荷物を置いて楽屋を施錠すると、友利は手ぶらで美月のあとに続いた。

「楽譜はお持ちにならないんですね」
「あ、ええ。リサイタルなので、好きな曲ばかり弾きますから」

美月は手にしていた公演のプログラムに目をやる。

「ショパンが多いのですね」
「そうなんです、ガラにもなく……」
「ショパンに合うガラって、どういうのですか?」
「は?」

ポカンとしてから、友利は取り繕うように慌てた。

「えっと、そうですね。ショパンはピアノの詩人と呼ばれているので、やはり知的で繊細なピアニストが弾くイメージですかね」
「なるほど。日本人が和歌を詠んだように、ショパンは音を紡いだのでしょうか……って、こんなことを言うと大概の人は引いてしまうので、口にしないようにしています」
「そ、そうですか」

たじろぐ友利に、美月は、しまった……と顔をしかめる。

「申し訳ありません。これから演奏されるというのに、集中力を欠くようなことを申し上げてしまい……」
「いえいえ、そんな。良いインスピレーションをもらいました。なるほど、和歌を詠むのも、情景を思い浮かべますものね。今夜は日本人の視点から、ショパンの音楽を奏でたいと思います」
「そう言っていただけると……。すみません。自分は変わり者だと自覚しているのに、ついうっかり」
「ははは! いえ、私もかなりの変わり者ですよ。ピアニストなんて呼ばれますけど、単なるピアノオタクで音楽バカってだけなんです」

友利は笑いを期待していたようだが、美月は真顔で頷いた。

「それは言い得て妙です。面白い方ですね、友利さんって」
「いえ、風間さんこそ」

ちょうどピアノの前にたどり着き、美月は足を止めて友利を振り返った。

「ご自由に音出しなさってください。開場は18時ですから、その前にお声をかけに参りますね」
「ありがとうございます。あの……」
「はい、なにか?」

美月が向き直ると、友利はためらいがちに口を開く。

「もしよろしければ、終演後に感想をお聞かせ願えたらと……」
「いえいえ、まさか。わたくしは全くの素人で、音楽のことはさっぱり分かりませんので」
「音楽を聴くのに資格も知識もいりません。むしろ、率直なお言葉をいただければ嬉しいのですが」
「わたくしでいいのなら、かしこまりました。業務がありますので、少ししかホールの中では聴けないのですが」

友利は嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「はい、少しだけでも構いません」
「そういうことなら、謹んで。それでは、後ほど」

お辞儀をしてから、美月は友利をホールに残して受付に戻った。
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