桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
ふと、三月ウサギが穴の中へ消える瞬間、濁った茶色の瞳が私を捕らえる。それはほんの一瞬だったのに、時が止まったように思えた。最後まで何も言わずに、三月ウサギは穴の暗闇の中へと消えていった。
「何をしているの! 捕えなさい、首をはねよ!」
ヒステリックになった女王様の声を聞きながら、黒ウサギを真っ直ぐ見つめる。 黒ウサギも私を見つめていて、微笑む黒ウサギが何か呟く。声が、聞こえたわけじゃない。けれど、聴こえた気がした。
『信じていた』
その言葉に、思わず微笑む。チェシャ猫だけじゃなくて、黒ウサギも私を信じてくれた。
やっと、心が交わった。
「逃がすものか!」
油断していた私達の間に、エースが入りこむ。放たれた剣の風圧に、黒ウサギの穴に向かっていた私達は、後ろへと逆戻りするように吹き飛ばされる。
「アリス!」
剣の風圧で吹き飛ばされた黒ウサギが、穴へと吸い込まれた。黒ウサギが消えた瞬間、穴は凝縮して瞬時に消える。エースは黒ウサギを逃がしたことには動揺せずに、残った私達を捕らえようとこちらに剣先を向けた。
「退路が断たれたね」
「これで、貴様等に逃げ場はない」
エースの鋭い瞳が、帽子の影から覗く。怒気を含んだその瞳に、体温が一気に下がる。
黒ウサギの穴以外の退路なんて考えてない。
静かに私とチェシャ猫を取り囲んでいくトランプ兵。 最大のピンチに、私はパニックに陥っていく。チェシャ猫も逃げ場のないこの状況に焦りを感じているのか、私を抱く腕に力がこもっている。それがさらに私を不安にさせた。
「アリス殿ー!」
張り上げられたジャックさんの声。上を仰ぎ見れば、私とチェシャ猫の上に大きな影が落ちてくる。大きな影は近付く度に大きく大きくなって。落ちてきたそれは、軽く数十人すっぽりと納めてしまいそうなくらい大きくて。
「逃げろー!」
「退避しろ、うわあぁぁ」
私とチェシャ猫は逃げる間もなく、降ってきたバケツに飲み込まれた。辺りは暗闇に包まれ、暗闇に慣れない目は何も映してくれない。ただ、チェシャ猫の姿だけは、はっきりと見てとれた。暗闇の中で浮かび上がっている。
「これはなんだい?」
「ほっほっほっ、見ての通りバケツですぞ。我々はバケツの中、ですぞ。ほっほっほっ」
暗闇の中でも何故かジャックさんの姿はしっかりと見えて、夢でも見ているみたいだった。
「それは分かるよ。このバケツは、何なんだい?」
私達を捕らえようとしたトランプ兵は退避したからなのか、姿は見当たらない。バケツの中は静かで、外の様子さえ伺うことが出来ない。
「このバケツはアリス殿への恩返しに、我がハート兵が出した不思議なバケツですぞ。このバケツはウサギの穴と似たような役割を果たしますぞ! 凄いですな? ほっほっほっ」
「恩返し? 恩返しされるようなことをしたような覚えは、思い浮かばないのだけど。城に居た時に何かしたのかな?」
不思議に思いながらも、少しずつジャックさんの姿がうっすらと存在感を失くしていく。暗闇が、晴れていく。
「次の行き先に黒ウサギはいなくとも、今のアリス殿に必要なモノの場所へ行けるはずですぞ。アリス殿、気をつけて」
慈しむような、暖かい眼差しで私を見送るジャックさん。最初、城を出た時と同じ暖かな見送り。違うのは私の目的と、ジャックさんの今の状況。女王様への裏切り行為をしたジャックさんに、身の安全はない。
「ジャックさんは、此処に残るの?」
恐る恐る、ジャックさんに問いかける。この場から消えていこうとする体を、もう少しここへ留めてほしいと願いながら。
「まだ部下が残っていますからな。そしてこの騒動の責を負うのも、このジャックの役目。年寄りのことは案ずることなく、心おきなくアリス殿の信念を貫いてくだされ」
「必ず、鏡は見つける。皆の呪いも、世界の呪いも解くよ。だから」
本当は一緒に逃げてほしい。だけどジャックさんが、部下の人達を大切に思っているのを知っているから。だから私は一緒に逃げてなんて言えない。
「ジャックさんも、諦めないで!」
最後にそう叫ぶと、視界は真っ白になる。最後までジャックさんは笑っていた。いつもの変わらない笑顔で。いってらっしゃいって、言ってくれた。
「ジャック、さんっ」
ぐずぐずと泣く私に、チェシャ猫は頭をコツンとぶつけてくる。猫っ毛のふわふわした赤い髪が、くすぐったい。
「君は此処に帰ってくる。アリスの、帰るべき城へ。呪いを解いて。そうだろう?」
「うんっ」
「女王がジャックの首をはねるとは思えないし、また会えるよ」
「そう、だよね」
ジャックさんもずっと過ごしてきた、大切な家族には変わりない。女王様にとってもそれは同じはず。かといってジャックさんを放置するとも思えないから、きっと牢に閉じ込めるのは間違いない。
――少しの間、待っていて、ジャックさん。
ジャックさんの無事を願いながら、真っ白な世界に身を委せる。すると少しずつ、一生懸命、薔薇に赤いペンキを塗る三人のトランプ兵が見えてきた。この人達は確か、間違って白い薔薇を植えて女王様に怒られていて、首をはねられそうになっていた。そんな彼らを許してもらうよう、女王様に懇願したのを思い出した。
恩返しって、そのことだったんだ。
おやすみ、と呟くチェシャ猫の声が聞こえたのを最後に、私の意識は途切れた。
「何をしているの! 捕えなさい、首をはねよ!」
ヒステリックになった女王様の声を聞きながら、黒ウサギを真っ直ぐ見つめる。 黒ウサギも私を見つめていて、微笑む黒ウサギが何か呟く。声が、聞こえたわけじゃない。けれど、聴こえた気がした。
『信じていた』
その言葉に、思わず微笑む。チェシャ猫だけじゃなくて、黒ウサギも私を信じてくれた。
やっと、心が交わった。
「逃がすものか!」
油断していた私達の間に、エースが入りこむ。放たれた剣の風圧に、黒ウサギの穴に向かっていた私達は、後ろへと逆戻りするように吹き飛ばされる。
「アリス!」
剣の風圧で吹き飛ばされた黒ウサギが、穴へと吸い込まれた。黒ウサギが消えた瞬間、穴は凝縮して瞬時に消える。エースは黒ウサギを逃がしたことには動揺せずに、残った私達を捕らえようとこちらに剣先を向けた。
「退路が断たれたね」
「これで、貴様等に逃げ場はない」
エースの鋭い瞳が、帽子の影から覗く。怒気を含んだその瞳に、体温が一気に下がる。
黒ウサギの穴以外の退路なんて考えてない。
静かに私とチェシャ猫を取り囲んでいくトランプ兵。 最大のピンチに、私はパニックに陥っていく。チェシャ猫も逃げ場のないこの状況に焦りを感じているのか、私を抱く腕に力がこもっている。それがさらに私を不安にさせた。
「アリス殿ー!」
張り上げられたジャックさんの声。上を仰ぎ見れば、私とチェシャ猫の上に大きな影が落ちてくる。大きな影は近付く度に大きく大きくなって。落ちてきたそれは、軽く数十人すっぽりと納めてしまいそうなくらい大きくて。
「逃げろー!」
「退避しろ、うわあぁぁ」
私とチェシャ猫は逃げる間もなく、降ってきたバケツに飲み込まれた。辺りは暗闇に包まれ、暗闇に慣れない目は何も映してくれない。ただ、チェシャ猫の姿だけは、はっきりと見てとれた。暗闇の中で浮かび上がっている。
「これはなんだい?」
「ほっほっほっ、見ての通りバケツですぞ。我々はバケツの中、ですぞ。ほっほっほっ」
暗闇の中でも何故かジャックさんの姿はしっかりと見えて、夢でも見ているみたいだった。
「それは分かるよ。このバケツは、何なんだい?」
私達を捕らえようとしたトランプ兵は退避したからなのか、姿は見当たらない。バケツの中は静かで、外の様子さえ伺うことが出来ない。
「このバケツはアリス殿への恩返しに、我がハート兵が出した不思議なバケツですぞ。このバケツはウサギの穴と似たような役割を果たしますぞ! 凄いですな? ほっほっほっ」
「恩返し? 恩返しされるようなことをしたような覚えは、思い浮かばないのだけど。城に居た時に何かしたのかな?」
不思議に思いながらも、少しずつジャックさんの姿がうっすらと存在感を失くしていく。暗闇が、晴れていく。
「次の行き先に黒ウサギはいなくとも、今のアリス殿に必要なモノの場所へ行けるはずですぞ。アリス殿、気をつけて」
慈しむような、暖かい眼差しで私を見送るジャックさん。最初、城を出た時と同じ暖かな見送り。違うのは私の目的と、ジャックさんの今の状況。女王様への裏切り行為をしたジャックさんに、身の安全はない。
「ジャックさんは、此処に残るの?」
恐る恐る、ジャックさんに問いかける。この場から消えていこうとする体を、もう少しここへ留めてほしいと願いながら。
「まだ部下が残っていますからな。そしてこの騒動の責を負うのも、このジャックの役目。年寄りのことは案ずることなく、心おきなくアリス殿の信念を貫いてくだされ」
「必ず、鏡は見つける。皆の呪いも、世界の呪いも解くよ。だから」
本当は一緒に逃げてほしい。だけどジャックさんが、部下の人達を大切に思っているのを知っているから。だから私は一緒に逃げてなんて言えない。
「ジャックさんも、諦めないで!」
最後にそう叫ぶと、視界は真っ白になる。最後までジャックさんは笑っていた。いつもの変わらない笑顔で。いってらっしゃいって、言ってくれた。
「ジャック、さんっ」
ぐずぐずと泣く私に、チェシャ猫は頭をコツンとぶつけてくる。猫っ毛のふわふわした赤い髪が、くすぐったい。
「君は此処に帰ってくる。アリスの、帰るべき城へ。呪いを解いて。そうだろう?」
「うんっ」
「女王がジャックの首をはねるとは思えないし、また会えるよ」
「そう、だよね」
ジャックさんもずっと過ごしてきた、大切な家族には変わりない。女王様にとってもそれは同じはず。かといってジャックさんを放置するとも思えないから、きっと牢に閉じ込めるのは間違いない。
――少しの間、待っていて、ジャックさん。
ジャックさんの無事を願いながら、真っ白な世界に身を委せる。すると少しずつ、一生懸命、薔薇に赤いペンキを塗る三人のトランプ兵が見えてきた。この人達は確か、間違って白い薔薇を植えて女王様に怒られていて、首をはねられそうになっていた。そんな彼らを許してもらうよう、女王様に懇願したのを思い出した。
恩返しって、そのことだったんだ。
おやすみ、と呟くチェシャ猫の声が聞こえたのを最後に、私の意識は途切れた。