桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
「スペードのエース、時計をこちらに持ってきなさい」
「は」
 少しのやり取りがあったと思うと、エースが一瞬の内に目の前に移動してきた。今まで離れていた距離がぐっと縮まって、すぐ側にきたエースに戸惑う。覚悟はしていたけど、実際こんなに近くにエースが来るのは思いの外恐ろしい。恐ろしいのは剣や武道の実力だけじゃない。エース自身さえ恐ろしくある。鋭く冷たい瞳。すらりと長い手足。身長の高さだけでなく、エースの持つ鋭い雰囲気や、強い意志を持った瞳、鍛えられた身体全てが、威圧感を相手に与えるには十分で、思わず一、二歩後ずさる
 醸し出されているオーラがひんやりと身体を冷やし、見えない剣で刺されているようだった。
「失礼、女王陛下の命により、時計を回収する」
 懐中時計はあっさりとスペードのエースに奪われ、直ぐに女王様の手に渡る。威圧感から解放された安堵と、懐中時計が女王様の手元にある不安。
 もう、色んなことがごちゃごちゃ過ぎてどうしたら良いのか分からない。
「怪我はないかい?」
「私は平気だよ」
 チェシャ猫が現れ、私の手を取ると両手で包む。強張っていた体がほぐれて、チェシャ猫の温もりが傍にあることにほっとした。
 頬に触れたチェシャ猫の手は、私の涙を拭ってくれていた。無意識に伏せていた目を上げると、チェシャ猫が不安げに私を見つめている。
 悲しそうな、寂しそうな。そんな想いが見え隠れする瞳。時計を止めた。白ウサギを消してしまった。約束を違えた私に失望していてもおかしくはないのに。涙を拭ってくれた指からは、私を心配してくれるチェシャ猫の優しさを感じる。その優しさに、胸がぎゅっと苦しくなった。
「泣かないで。君が出した答えなら、僕は君を信じるよ」
 その言葉が、とても嬉しい。言葉に表せないくらい、とてもとても。
「確かに時計は止まったわね。けれど崩壊が止まったかは未確認よ。クローバー兵、崩壊の有無の確認を急ぎなさい」
「了解しました。女王様」
 女王様はトランプ兵に指示を出すと、席を立ちくるりと背を向ける。
「疲れたわ、私は少し休む。念のため黒ウサギを」
「貴様っ、何をしている!」
 女王様の言葉を遮った叫び声。その声を合図に、チェシャ猫の手をひく。
「チェシャ猫、行こう!」
「そうかい、君達は」
 チェシャ猫はそこで切ると、にこりと笑う。いや、ニヤリと言ったほうがいいかもしれない。
「アリス! 早く穴へ!」
意図を汲み取ってくれたチェシャ猫が私を抱き上げ、黒ウサギが手を伸ばす方へと飛ぶ。
「アリス、あんた、この私を騙したわね!」
 身を乗り出して、女王様が悔しそうに叫ぶ。
「そうだ。止まってなんかない。女王、お前が持つ懐中時計は偽物だ」
 黒ウサギが、本物の懐中時計を手に持ち笑う。時計はその存在を主張するかのように、鎖が鳴った。
 そう、黒ウサギは偽物の懐中時計に、閃光弾を仕掛けていた。私はそれを起動させるだけ。こんな子供騙しが通用するとは思わなかったけれど、この状況で小細工をしてくるとは思わなかったみたいだ。
「捕えなさい! 早く!」
「この一瞬の油断で十分だ。俺たちの勝ちだ」
 怒った女王様が、トランプ兵に向かって叫ぶ。急な展開の連続に唖然としていたトランプ兵は、とっさには動くことは出来ないみたいだった。黒ウサギは女王様がエースとのやり取りをしている内に、逃げ道を確保したようだった。この隙に、三月ウサギが穴へと入っていく。
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