桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 そう言ってその後優しく抱き締めてくれたことが凄く嬉しくて、だけど離れたくなるくらいドキドキして、戸惑っていた。その時の感覚も、土の匂いも、今まで忘れていたのが不思議なくらい繊細に思い出せる。
 甘く、けれどどこか悲しい、大切な思い出。
 あの男の子といて嬉しかったのは、病気かと思うくらいドキドキしたのは何故だろう。
 抱き締めてられている力が緩み、現実に帰る。回された腕がするりと落ちたのがマント越しに分かった。私を包んでいたマントも、種明かしをするかのように地面へと落ちていく。
「アリス、逃げて」
 マントがなくなって見えたのは、倒れていくチェシャ猫。キラキラと降り注ぐ光の粒が、黄色とオレンジの森を幻想的に見せている中、私はチェシャ猫を抱き止めた。
「どうして」
 青い顔のチェシャ猫は荒い呼吸を繰り返し、ぐったりとしている。額に触れると驚くほど熱い。体の異常を訴えるかのように、肌は尋常ではないくらい汗ばんでいる。
「あれ」
「あえてガスにしなかったのに」
「毒だって」
「バレちゃったか」
 間近に聞こえた声に振り返ると、双子がすぐそこまで来ていた。面白そうに、楽しそうに私達を見下ろす瞳には、僅かな狂喜が宿っていた。暗黒の魔女に比べると本当に小さな狂喜。怖くない。だけど最後の言葉に、上がった体温が下がっていく。
「毒、ってもしかしてさっきの光が?」
「逃げて、アリス」
 毒が回って苦しいはずなのに、チェシャ猫は逃げろと言う。これじゃあ、あの時と同じ。
 血にまみれた手。目の前でチェシャ猫に振りかざされる剣。大切な人達が死んでしまうかもしれない恐怖。恐怖は狂気を呼び覚まし、深い闇から暗黒の魔女を連れてきた。
 もう、二度とあんな恐怖を味わいたくない。チェシャ猫にもあんな目に合わせたくない。だから怖いだなんて思っちゃダメ。私が、何とかしなきゃ。
「逃げない、私がチェシャ猫を守るよ」
「アリ、ス」
 チェシャ猫にだけ聞こえるように呟いて、一度だけぎゅっと強く抱き締める。
「終わりだよ」
「大人しく」
「「捕まりなよ」」
「待って!」
 伸ばされたディーの手が、頭に触れられる前に止まる。オッドアイの瞳がスッと細められた。口元は面白いと言うように笑みが浮かんでいる。
「兄弟から」
「逃げないんだ」
「賢明な」
「判断だね」
「このダイヤの森は」
「兄弟のテリトリー」
 案内するかのように大袈裟に片手を上げ、紳士がする礼をしてみせる。この森全体が二人にとってはショーの舞台。侵入者を捕らえる様々なトラップがあるのは、私にも予想出来た。だから逃げないのもあるんだけど、思い出したことがある。
「私はアリス。世界の崩壊を止めるために」
 そう、ここはダイヤの城の私有地。けど不思議の国は女王様の国。ダイヤ城の主は、女王様に会ったことがあるはず。ううん、あるはずなんて曖昧で相応しくない。私の記憶が正しければ、だけど。
「この城の王様、ダイヤの王子に会いに来たの」
 城の主、ダイヤの王子は。
「女王様の、命で!」
 呪いでダイヤの王子にされたハートの王様。
 だから、女王様の命令には逆らえない。誰よりも、機嫌を損ねたくないはず。だって、ダイヤの王子様は女王様が大好きなのだから。
「女王の」
「命令?」
 キョトン、と双子は目をパチパチさせながら二人で目を合わす。動くタイミングも表情も全く一緒で凄い。双子って、こんなにも同じに動くものなのだろうか。黒ウサギと白ウサギが二人揃わない分、不可解に思える。
「それじゃあ」
「仕方ない」
「本当かどうか」
「怪しいけど」
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